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前橋市の歴史

最終更新日:2012年7月24日(火)ページID:001291印刷する

前橋市の歴史について掲載しています。


前橋は古くは「まやはし」と称しました。「厩橋」が「前橋」に改められたのは西暦1648年から1652年、酒井忠清が城主であった頃だと言われています。
「厩橋」の名は、現在利根川の流れているあたりに車川と称する流れがあり、そこにかかっていた橋を「駅家(うまや)の橋」と呼んだことから、自然に地名になったと伝えられています。
前橋市域には、700余基もの古墳がありました。この中には、東国では最も古いとされる天神山古墳から、終末期古墳の典型とされる宝塔山古墳に至るまでの各期のものがあります。また、墳丘や石室にも巨大なものがあり、副葬品にも優秀なものが多く出土しています。こうした優れた古墳文化を背景として、律令体制の中にあっては、国府設置の場となり、上野国の政治的中心地となりました。このため国分寺や山王廃寺などの建設されるところとなり、仏教文化の華が咲きほこりました。
群馬(くるま)の郡、駅家(うまや)の郷、群馬(くるま)の駅など前橋の地名が出てくるのが10世紀平安中期で、平安から鎌倉時代にかけては、日輪寺の十一面観世音像、善勝寺の鉄造阿弥陀如来座像がつくられました。
厩橋城が築かれたのは文明年間(1470年代)とされていますが、この城は戦国時代、上杉・武田・北条氏等の攻防の的となり、特に永禄10年(1567年)の戦いでは、武田・北条氏のために、当時繁栄していた天川原、六供方面の町並みが焼き払われ、街の中心は旧利根川の河原であった低地に移りました。これが現在の中心街です。(利根川の変流は1400年代だと言われています。)
徳川時代になって酒井氏が川越から移って城主となり、9代150年の長きにわたって城主となり、その後松平氏に代わりましたが、松平氏は利根川の洪水による城地決壊のため、わずか19年で川越に移城し、前橋は99年の間廃城の状態が続きました。このため街は衰微の極に達したので、城の再築を願って街の復興を図り、慶応3年(1867年)松平氏を再度前橋に迎えましたが、まもなく明治維新となりました。
これより先、前橋の主産業の製糸は安政6年の横浜開港と藩主松平氏の奨励により盛んとなり、明治に入って「糸のまち」前橋の名はますます高まりました。
明治14年に県庁が前橋に置かれることになって街の繁栄の基礎が築かれ、明治22年町制を施行、同25年県内最初、関東で4番目、全国で41番目に市制を施行しました。
その後、明治34年上川淵の6大字を合併、43年には1府14県の大共進会を開催、大正年間に北部、南部の両耕地整理、昭和に入って上水道を布設しました。
太平洋戦争終結の直前、すなわち昭和20年8月戦災を受けて中心市街地の8割を焼失するという被害を受けましたが、これを機に戦災復興事業を施行して市の復輿を図るとともに、29年以来近接町村を合併して市域を拡大し、35年には消費都市から生産都市への転換を目標に、首都圏都市開発区域の指定を受けて工場誘致を実施し大いに成果を上げました。
また、近代的都市建設のための都市改造事業、区画整理事業等を積極的に進めるとともに、42年5月に城南村を合併しました。
平成13年には特例市の指定を受け、平成16年12月5日には、大胡町・宮城村・粕川村と合併しました。平成21年4月には県内初の中核市へ移行するとともに、5月5日には富士見村と合併し、24年には市制施行120周年を迎え、さらなる飛躍を続けています。

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〒371-8601 群馬県前橋市大手町二丁目12番1号(地図・開庁時間等)

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