前橋市の歴史

前橋市の歴史について掲載しています。

「前橋」の誕生


前橋は古くは「厩橋(まやはし)」と称しました。
「厩橋」が「前橋」に改められたのは西暦1648年から1652年、前橋藩第4代藩主の酒井忠清(さかい ただきよ)が城主であった頃だと言われています。


「厩橋」の名は、現在利根川の流れているあたりに車川と称する流れがあり、そこにかかっていた橋を「駅家(うまや)の橋」と呼んだことから、自然に地名になったと伝えられています。

古墳の多い前橋市


前橋市域には、昭和初期の調査では700基を超える古墳がありました。
この中には、4世紀の古い時代のものとされる八幡山古墳や天神山古墳、終末期古墳の典型とされる宝塔山古墳に至るまでの各期のものがあります。また、墳丘や石室が巨大な古墳があるとともに、副葬品にも国立博物館に収蔵されているような優秀なものが多く出土しています。これらを背景にその後の律令体制では、国府設置の場となり、上野国の政治的中心地となりました。このため国分寺や山王廃寺などの建設されるところとなり、仏教文化の華が咲きほこりました。

平安時代から戦国時代の前橋


10世紀頃になると律令体制が崩れ、日本は変革期に突入。やがて武士の時代を迎えます。12世紀初頭には浅間山の噴火で前橋も被害を受けます。こうした状況を受け、前橋地域も荒廃した時期があったようです。また、平安から鎌倉時代にかけては、日輪寺の十一面観世音像、善勝寺の鉄造阿弥陀如来座像がつくられました。
厩橋城(前橋城)の築城は15世紀に始まったようです。この城は戦国時代、上杉・武田・北条氏等の攻防の的となり、特に永禄10年(1567年)の戦いでは、武田・北条氏のために、当時繁栄していた天川原、六供方面の町並みが焼き払われ、街の中心は旧利根川の河原であった低地に移ったといわれています。これが現在の中心街です。(利根川の変流は1400年代だといわれています。)

江戸時代から明治時代の前橋


関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)、徳川氏譜代の酒井氏が前橋の地に入ります。以後、9代約150年の長きにわたって前橋藩を治めました。酒井氏は幕政においても活躍し、4代藩主の忠清は大老として大きな影響力を持ちました。その後、酒井氏と姫路藩の松平氏が入れ替わりましたが、松平氏は利根川の洪水による前橋城域の崩壊や大火のため、19年で川越に移り、前橋は99年間、川越藩前橋分領の状態となりました。
このため前橋は衰退。領民は再興を願って街の復興を図り、慶応3年(1867年)松平氏を再度前橋に迎えましたが、まもなく明治維新となりました。
また、江戸中期に成長した前橋の生糸産業は安政6年(1859年)の横浜開港と藩主松平氏の奨励により盛んとなり、前橋の近代化を支えました。

県庁所在地、そして「前橋市」へ


明治14年に県庁が前橋に置かれることになってさらなる繁栄の基礎が築かれ、明治22年に町制を施行、同25年には県内最初、関東で4番目、全国で41番目に市制を施行しました。
その後、明治34年に上川淵の6大字を合併、43年には1府14県の大共進会を開催、大正年間に北部、南部の両耕地整理、昭和に入って上水道を布設しました。
第二次世界大戦終結の直前、すなわち昭和20年8月には戦災を受けて中心市街地の8割を焼失するという被害を受けましたが、これを機に戦災復興事業を施行して市の復輿を図るとともに、29年以来近接町村を合併して市域を拡大し、35年には消費都市から生産都市への転換を目標に、首都圏都市開発区域の指定を受けて工場誘致を実施し大いに成果を上げました。
また、近代的都市建設のための都市改造事業、区画整理事業等を積極的に進めるとともに、42年5月に城南村を合併しました。

新しい価値の創造都市を目指して


平成13年には特例市の指定を受け、平成16年12月5日には、大胡町・宮城村・粕川村と合併しました。平成21年4月には県内初の中核市へ移行するとともに、5月5日には富士見村と合併。平成24年には市制施行120周年を迎えました。現在は平成30年度にスタートした第七次総合計画のもと、「前橋らしさ」を発揮しながら、「新しい価値の創造都市」を目指しています。

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更新日:2019年02月01日