第7回前橋市歴史的風致維持向上協議会

審議会名

歴史的風致維持向上協議会

会議名

第7回前橋市歴史的風致維持向上協議会

日時

令和4年8月19日(金曜日)10時00分~11時00分

場所

前橋市本庁舎11階北会議室

出席者

委員

手島会長、戸所副会長、村田副会長、後藤委員、西尾委員、日下田委員、星委員、堀込委員、新井委員、藤井委員

オブザーバー

植木係長(国土交通省関東整備局高崎河川国道事務所計画課)高橋主幹(群馬県都市計画課まちづくり室)、岩上主幹(群馬県文化財保護課)、稲垣まちづくり推進チーム長(前橋商工会議所産業政策部)

事務局(都市計画課)

宇田都市計画課長、高瀬課長補佐、原澤副主幹、山口主任

歴史まちづくり推進委員会委員・WGメンバー

田中参事、大島主任(以上、文化国際課)、上野課長、信澤副参事(以上、文化財保護課)

 

欠席者

大塚委員、飯塚委員

議題

1 歴史的風致維持向上計画について

2 計画策定後の協議会のあり方について

配布資料

会議の内容

1 開会

2 議事

(1) 歴史的風致維持向上計画について

事務局より、資料に基づき説明があった。

(1)に係る質疑応答

(戸所副会長)

まず1つ目として、16ページの詳細図だが、1ページを使ってこの単純な図でいいのか。もう少し前橋の構造や、歴史的な空間構造がわかるような方が良いのでは。またJR駅の名前くらいは入れた方が良い。地名もほとんど出ていないし、土地利用図的なものがあるともう少し構造がわかる。赤城の山から面積が非常に広いが、市街地がどこかなど空間的なものが全くわらない。これだけ分厚い計画書なのだから、もう少し良い地図が必要なのではないかと思う。

2つ目は、49ページの総社について、国指定重要文化財が載っていないということで指摘し、総社二子山と山王廃寺を載せてもらったが、指定要件に国の文化財指定があるという条件があったと思う。そうすると総社の蛇穴山古墳や宝塔山古墳は後には出てくるが、第1章の49ページにある指定一覧のところでも出しておく必要があるのではないか。最初から読み始めた時に、こういう指摘があるから指定の要件になっているのだと理解できると思う。

3つ目は、資料1の4ページのところで、第3の危機として、世界恐慌で製糸業がかなり大きな被害を受けた。これは前橋としてどう危機を乗り切ったのかを表現するか聞きたい。

(事務局(高瀬課長補佐))

16ページの詳細図については、地名や、道路や駅の名前などを入れるようにと印刷会社に言ってある。ただ、このページの位置づけは、前橋の「位置」なので、地形や地質など、戸所先生の言ったような総括的に見られる詳細図は少し難しい。イメージ的には、30ページに似たような図があるので、これくらいのレベルでいかがかと思っている。地形図は地形図、都市構造図は都市構造図などが違うページにあるので、この30ページのような駅の名前があり、主要な道路が書いてあるという図でご容赦いただけるとありがたいと考えている。

続いて49ページの文化財の要件のところで、国指定のものを全部入れた方が良いのではないか、というご指摘だが、他都市の計画書を見ると、全部入れているものもあれば、代表のものだけ載せているところもある。前橋の場合は、全部載せるとページ数も増えてしまうこともあり、ピックアップして書いたことで、総社の代表として二子山古墳と山王廃寺がある。今後、文化財保護課とも打合せをして、全部入れるのか、このままいくのか再度検討したいと思うが、できればこのままでご了承いただければと思う。

それから、第3の危機ということで、昭和恐慌をどうクリアしたかという話だが、昭和恐慌を受けて、製糸業界が壊滅した後に、前橋は商工会議所を中心に産業構造の転換を図り、観光産業を目指すという形をとった。木工業が発達したこともそうである。ただ、それが完遂する前に戦争が始まってしまい、すぐに第4の危機が来たという状況である。

(手島会長)

その点については、43ページの世界恐慌と地場産業のところにわかるように記載されている。製糸業依存体制を脱却し、地場産業の木工業や食料品製造の振興を図り、中島飛行機や理研などの軍需産業の誘致などを行い、それが後の前橋市の重工業のもとになった。戸所先生が指摘した詳細図は、実際の地図が概要図になっているので、齟齬が生じる。詳細図というキャプションならそれにふさわしい地図に変える。逆に「詳細図」という表記を「概要図」にする。いずれかにすることだと思う。

(村田副会長)

文化財の特徴を出した方が良いという指摘をしたが、その中で今回大きな柱となるのが総社の養蚕文化である。その歴史についてほとんど触れられていないのではないか。近世の後半から明治、大正までにおける養蚕業はどうだったのか、養蚕業によって養蚕農家ができるわけであるし、松下政右衛門などの養蚕家も輩出された。前橋全体の章立てのところでもいいので、入れた方が良いのではないか。同時に、製糸業の大きな流れ、前橋がどう動いてきたのかも入れた方が良い。そうすることで、なぜ前橋に製糸業の工場がたくさんあるのか、という話と繋がってくる。養蚕農家がなぜ起きたのかといえば、その歴史をなんらかの形で、例えば121ページの歴史的風致の概要の中で書いて良いのではないか。「近代に入り」ではなく、幕末や1800年代初めから盛んになるわけなので。

(事務局(高瀬課長補佐))

121ページのところに元総社、総社の歴史がざっくり書いてあるので、一気に養蚕農家に移行していくよりは、もう少し前段階から書けるような参考資料を探して記述を試みたい。47ページには4大養蚕家ということで、松下政右衛門などの記述はあるのでご承知いただければと思う。

(手島会長)

総社は、町場があり、農村部がある構造の中で、時代を遡れば遡るほど集落の自立性や独立性が強かったと思うが、一概に総社と言い難い。そこはどう考えれば良いか。

(戸所副会長)

128ページの旧佐渡奉行街道、大渡橋のところからあるのが宿場町兼町屋である。その北側の利根川と、それに囲まれたところには総社城があり、そこが給人屋敷町(武家町)という。その外側の天狗岩用水の向こうが山王地区で、山王は当時の農業経済基盤で一番強い。養蚕などで山王が中心となってきて、製糸業との関係で言うと、前橋が製糸を中心としたのとは異なり、山王では養蚕でありかつ、資本を出せる集落だった。利根西で大きな製糸工場は群馬社であったが、山王の養蚕農家はそこにも関わっている。これは前橋の製糸関係と性格が違う。山王では資本を蓄積した都丸さんは現在では種卵生産から養鶏・採卵までたまご一貫生産する大手株式会社トマルやホンダカーズ(自動車販売)などに業態転換して、域外へも企業展開をする地区となっている。このことから、単純に養蚕農家というだけではない。今回それをどこまで書くのかはわからないが、性格的には別である。指定を受けるにあたってどう表現するか。

(手島会長)

今は山王地区に養蚕農家の建物群があるから、それを元にして説明しがちである。しかし、幕末から、いまの総社地区の養蚕・蚕種のリーダーは高井地区の福島蔵之助さんであった。蔵之助を代々襲名し、県の養蚕試験場が総社に誘致できたのも、蔵之助の功績であった。蚕種は国府から清里、そして総社と流れてくる。清里の養蚕指導者の井草太郎右衛門と福島家は親戚関係にある。そうしたことから福島蔵之助がリーダーとなって山王地区を含め総社の指導者となる。高井と山王では距離があるが、総社駅にも町場に近い高井地区が開発されなければ、福島家のような蚕種農家の建物群が高井地区に残り、それらは、国の重文になった塩原家にも、山王地区の養蚕農家建物にも勝るものであった。そういう歴史的経緯がある中で、山王地区をどう語るのか。山王地区だけが幸いに農家建物群が残ったという現状にある。それをどうやってここで説明をするのかが大きな課題である。

(戸所副会長)

福島さんは蚕種製造だが、福島蔵之助さんは明治から代々総社町町議や町長を務め、昭和29年の合併後もしばらく前橋市議会議員であった。

(村田副会長)

数年前、国の指定から養蚕農家はなくなり、蚕種製造農家、蚕種製造民家になった。なぜかというと、ほとんどの家は種は作っていなく、繭を製造しているだけであった。このため繭製造民家と蚕種製造民家で分けている。数年前に建築学会の文化審議委員会などで、私が提案し、皆そうだろうとなった。以後、蚕種製造農家、養蚕農家という認識となっている。養蚕の歴史の中で、そのあたりも言わざるを得なくなる。山王にあれだけあれば当然、数件は種屋がないとやっていけない。田口の塩原蚕種が国の指定になっているが、総社だけに限らず、繭製造にとって、種屋は非常に重要である。少なくとも民家の一覧表にそれが書いてあるべきではないか。全て養蚕農家となっており、そのうち種があるのかないのか分からなかった。今後、調査をやる段階になれば、そのあたりもポイントになる。

(戸所副会長)

山賀倉庫が今回は掲載ができないとしても、なんらかの形で保全に繋がるようなシステム作りを考えていただけると良いと思う。

(戸所副会長)

まず1つ目として、16ページの詳細図だが、1ページを使ってこの単純な図でいいのか。もう少し前橋の構造や、歴史的な空間構造がわかるような方が良いのでは。またJR駅の名前くらいは入れた方が良い。地名もほとんど出ていないし、土地利用図的なものがあるともう少し構造がわかる。赤城の山から面積が非常に広いが、市街地がどこかなど空間的なものが全くわらない。これだけ分厚い計画書なのだから、もう少し良い地図が必要なのではないかと思う。

2つ目は、49ページの総社について、国指定重要文化財が載っていないということで指摘し、総社二子山と山王廃寺を載せてもらったが、指定要件に国の文化財指定があるという条件があったと思う。そうすると総社の蛇穴山古墳や宝塔山古墳は後には出てくるが、第1章の49ページにある指定一覧のところでも出しておく必要があるのではないか。最初から読み始めた時に、こういう指摘があるから指定の要件になっているのだと理解できると思う。

3つ目は、資料1の4ページのところで、第3の危機として、世界恐慌で製糸業がかなり大きな被害を受けた。これは前橋としてどう危機を乗り切ったのかを表現するか聞きたい。

(事務局(高瀬課長補佐))

16ページの詳細図については、地名や、道路や駅の名前などを入れるようにと印刷会社に言ってある。ただ、このページの位置づけは、前橋の「位置」なので、地形や地質など、戸所先生の言ったような総括的に見られる詳細図は少し難しい。イメージ的には、30ページに似たような図があるので、これくらいのレベルでいかがかと思っている。地形図は地形図、都市構造図は都市構造図などが違うページにあるので、この30ページのような駅の名前があり、主要な道路が書いてあるという図でご容赦いただけるとありがたいと考えている。

続いて49ページの文化財の要件のところで、国指定のものを全部入れた方が良いのではないか、というご指摘だが、他都市の計画書を見ると、全部入れているものもあれば、代表のものだけ載せているところもある。前橋の場合は、全部載せるとページ数も増えてしまうこともあり、ピックアップして書いたことで、総社の代表として二子山古墳と山王廃寺がある。今後、文化財保護課とも打合せをして、全部入れるのか、このままいくのか再度検討したいと思うが、できればこのままでご了承いただければと思う。

それから、第3の危機ということで、昭和恐慌をどうクリアしたかという話だが、昭和恐慌を受けて、製糸業界が壊滅した後に、前橋は商工会議所を中心に産業構造の転換を図り、観光産業を目指すという形をとった。木工業が発達したこともそうである。ただ、それが完遂する前に戦争が始まってしまい、すぐに第4の危機が来たという状況である。

(手島会長)

その点については、43ページの世界恐慌と地場産業のところにわかるように記載されている。製糸業依存体制を脱却し、地場産業の木工業や食料品製造の振興を図り、中島飛行機や理研などの軍需産業の誘致などを行い、それが後の前橋市の重工業のもとになった。戸所先生が指摘した詳細図は、実際の地図が概要図になっているので、齟齬が生じる。詳細図というキャプションならそれにふさわしい地図に変える。逆に「詳細図」という表記を「概要図」にする。いずれかにすることだと思う。

(村田副会長)

文化財の特徴を出した方が良いという指摘をしたが、その中で今回大きな柱となるのが総社の養蚕文化である。その歴史についてほとんど触れられていないのではないか。近世の後半から明治、大正までにおける養蚕業はどうだったのか、養蚕業によって養蚕農家ができるわけであるし、松下政右衛門などの養蚕家も輩出された。前橋全体の章立てのところでもいいので、入れた方が良いのではないか。同時に、製糸業の大きな流れ、前橋がどう動いてきたのかも入れた方が良い。そうすることで、なぜ前橋に製糸業の工場がたくさんあるのか、という話と繋がってくる。養蚕農家がなぜ起きたのかといえば、その歴史をなんらかの形で、例えば121ページの歴史的風致の概要の中で書いて良いのではないか。「近代に入り」ではなく、幕末や1800年代初めから盛んになるわけなので。

(事務局(高瀬課長補佐))

121ページのところに元総社、総社の歴史がざっくり書いてあるので、一気に養蚕農家に移行していくよりは、もう少し前段階から書けるような参考資料を探して記述を試みたい。47ページには4大養蚕家ということで、松下政右衛門などの記述はあるのでご承知いただければと思う。

(手島会長)

総社は、町場があり、農村部がある構造の中で、時代を遡れば遡るほど集落の自立性や独立性が強かったと思うが、一概に総社と言い難い。そこはどう考えれば良いか。

(戸所副会長)

128ページの旧佐渡奉行街道、大渡橋のところからあるのが宿場町兼町屋である。その北側の利根川と、それに囲まれたところには総社城があり、そこが給人屋敷町(武家町)という。その外側の天狗岩用水の向こうが山王地区で、山王は当時の農業経済基盤で一番強い。養蚕などで山王が中心となってきて、製糸業との関係で言うと、前橋が製糸を中心としたのとは異なり、山王では養蚕でありかつ、資本を出せる集落だった。利根西で大きな製糸工場は群馬社であったが、山王の養蚕農家はそこにも関わっている。これは前橋の製糸関係と性格が違う。山王では資本を蓄積した都丸さんは現在では種卵生産から養鶏・採卵までたまご一貫生産する大手株式会社トマルやホンダカーズ(自動車販売)などに業態転換して、域外へも企業展開をする地区となっている。このことから、単純に養蚕農家というだけではない。今回それをどこまで書くのかはわからないが、性格的には別である。指定を受けるにあたってどう表現するか。

(手島会長)

今は山王地区に養蚕農家の建物群があるから、それを元にして説明しがちである。しかし、幕末から、いまの総社地区の養蚕・蚕種のリーダーは高井地区の福島蔵之助さんであった。蔵之助を代々襲名し、県の養蚕試験場が総社に誘致できたのも、蔵之助の功績であった。蚕種は国府から清里、そして総社と流れてくる。清里の養蚕指導者の井草太郎右衛門と福島家は親戚関係にある。そうしたことから福島蔵之助がリーダーとなって山王地区を含め総社の指導者となる。高井と山王では距離があるが、総社駅にも町場に近い高井地区が開発されなければ、福島家のような蚕種農家の建物群が高井地区に残り、それらは、国の重文になった塩原家にも、山王地区の養蚕農家建物にも勝るものであった。そういう歴史的経緯がある中で、山王地区をどう語るのか。山王地区だけが幸いに農家建物群が残ったという現状にある。それをどうやってここで説明をするのかが大きな課題である。

(戸所副会長)

福島さんは蚕種製造だが、福島蔵之助さんは明治から代々総社町町議や町長を務め、昭和29年の合併後もしばらく前橋市議会議員であった。

(村田副会長)

数年前、国の指定から養蚕農家はなくなり、蚕種製造農家、蚕種製造民家になった。なぜかというと、ほとんどの家は種は作っていなく、繭を製造しているだけであった。このため繭製造民家と蚕種製造民家で分けている。数年前に建築学会の文化審議委員会などで、私が提案し、皆そうだろうとなった。以後、蚕種製造農家、養蚕農家という認識となっている。養蚕の歴史の中で、そのあたりも言わざるを得なくなる。山王にあれだけあれば当然、数件は種屋がないとやっていけない。田口の塩原蚕種が国の指定になっているが、総社だけに限らず、繭製造にとって、種屋は非常に重要である。少なくとも民家の一覧表にそれが書いてあるべきではないか。全て養蚕農家となっており、そのうち種があるのかないのか分からなかった。今後、調査をやる段階になれば、そのあたりもポイントになる。

(戸所副会長)

山賀倉庫が今回は掲載ができないとしても、なんらかの形で保全に繋がるようなシステム作りを考えていただけると良いと思う。

(戸所副会長)

まず1つ目として、16ページの詳細図だが、1ページを使ってこの単純な図でいいのか。もう少し前橋の構造や、歴史的な空間構造がわかるような方が良いのでは。またJR駅の名前くらいは入れた方が良い。地名もほとんど出ていないし、土地利用図的なものがあるともう少し構造がわかる。赤城の山から面積が非常に広いが、市街地がどこかなど空間的なものが全くわらない。これだけ分厚い計画書なのだから、もう少し良い地図が必要なのではないかと思う。

2つ目は、49ページの総社について、国指定重要文化財が載っていないということで指摘し、総社二子山と山王廃寺を載せてもらったが、指定要件に国の文化財指定があるという条件があったと思う。そうすると総社の蛇穴山古墳や宝塔山古墳は後には出てくるが、第1章の49ページにある指定一覧のところでも出しておく必要があるのではないか。最初から読み始めた時に、こういう指摘があるから指定の要件になっているのだと理解できると思う。

3つ目は、資料1の4ページのところで、第3の危機として、世界恐慌で製糸業がかなり大きな被害を受けた。これは前橋としてどう危機を乗り切ったのかを表現するか聞きたい。

(事務局(高瀬課長補佐))

16ページの詳細図については、地名や、道路や駅の名前などを入れるようにと印刷会社に言ってある。ただ、このページの位置づけは、前橋の「位置」なので、地形や地質など、戸所先生の言ったような総括的に見られる詳細図は少し難しい。イメージ的には、30ページに似たような図があるので、これくらいのレベルでいかがかと思っている。地形図は地形図、都市構造図は都市構造図などが違うページにあるので、この30ページのような駅の名前があり、主要な道路が書いてあるという図でご容赦いただけるとありがたいと考えている。

続いて49ページの文化財の要件のところで、国指定のものを全部入れた方が良いのではないか、というご指摘だが、他都市の計画書を見ると、全部入れているものもあれば、代表のものだけ載せているところもある。前橋の場合は、全部載せるとページ数も増えてしまうこともあり、ピックアップして書いたことで、総社の代表として二子山古墳と山王廃寺がある。今後、文化財保護課とも打合せをして、全部入れるのか、このままいくのか再度検討したいと思うが、できればこのままでご了承いただければと思う。

それから、第3の危機ということで、昭和恐慌をどうクリアしたかという話だが、昭和恐慌を受けて、製糸業界が壊滅した後に、前橋は商工会議所を中心に産業構造の転換を図り、観光産業を目指すという形をとった。木工業が発達したこともそうである。ただ、それが完遂する前に戦争が始まってしまい、すぐに第4の危機が来たという状況である。

(手島会長)

その点については、43ページの世界恐慌と地場産業のところにわかるように記載されている。製糸業依存体制を脱却し、地場産業の木工業や食料品製造の振興を図り、中島飛行機や理研などの軍需産業の誘致などを行い、それが後の前橋市の重工業のもとになった。戸所先生が指摘した詳細図は、実際の地図が概要図になっているので、齟齬が生じる。詳細図というキャプションならそれにふさわしい地図に変える。逆に「詳細図」という表記を「概要図」にする。いずれかにすることだと思う。

(村田副会長)

文化財の特徴を出した方が良いという指摘をしたが、その中で今回大きな柱となるのが総社の養蚕文化である。その歴史についてほとんど触れられていないのではないか。近世の後半から明治、大正までにおける養蚕業はどうだったのか、養蚕業によって養蚕農家ができるわけであるし、松下政右衛門などの養蚕家も輩出された。前橋全体の章立てのところでもいいので、入れた方が良いのではないか。同時に、製糸業の大きな流れ、前橋がどう動いてきたのかも入れた方が良い。そうすることで、なぜ前橋に製糸業の工場がたくさんあるのか、という話と繋がってくる。養蚕農家がなぜ起きたのかといえば、その歴史をなんらかの形で、例えば121ページの歴史的風致の概要の中で書いて良いのではないか。「近代に入り」ではなく、幕末や1800年代初めから盛んになるわけなので。

(事務局(高瀬課長補佐))

121ページのところに元総社、総社の歴史がざっくり書いてあるので、一気に養蚕農家に移行していくよりは、もう少し前段階から書けるような参考資料を探して記述を試みたい。47ページには4大養蚕家ということで、松下政右衛門などの記述はあるのでご承知いただければと思う。

(手島会長)

総社は、町場があり、農村部がある構造の中で、時代を遡れば遡るほど集落の自立性や独立性が強かったと思うが、一概に総社と言い難い。そこはどう考えれば良いか。

(戸所副会長)

128ページの旧佐渡奉行街道、大渡橋のところからあるのが宿場町兼町屋である。その北側の利根川と、それに囲まれたところには総社城があり、そこが給人屋敷町(武家町)という。その外側の天狗岩用水の向こうが山王地区で、山王は当時の農業経済基盤で一番強い。養蚕などで山王が中心となってきて、製糸業との関係で言うと、前橋が製糸を中心としたのとは異なり、山王では養蚕でありかつ、資本を出せる集落だった。利根西で大きな製糸工場は群馬社であったが、山王の養蚕農家はそこにも関わっている。これは前橋の製糸関係と性格が違う。山王では資本を蓄積した都丸さんは現在では種卵生産から養鶏・採卵までたまご一貫生産する大手株式会社トマルやホンダカーズ(自動車販売)などに業態転換して、域外へも企業展開をする地区となっている。このことから、単純に養蚕農家というだけではない。今回それをどこまで書くのかはわからないが、性格的には別である。指定を受けるにあたってどう表現するか。

(手島会長)

今は山王地区に養蚕農家の建物群があるから、それを元にして説明しがちである。しかし、幕末から、いまの総社地区の養蚕・蚕種のリーダーは高井地区の福島蔵之助さんであった。蔵之助を代々襲名し、県の養蚕試験場が総社に誘致できたのも、蔵之助の功績であった。蚕種は国府から清里、そして総社と流れてくる。清里の養蚕指導者の井草太郎右衛門と福島家は親戚関係にある。そうしたことから福島蔵之助がリーダーとなって山王地区を含め総社の指導者となる。高井と山王では距離があるが、総社駅にも町場に近い高井地区が開発されなければ、福島家のような蚕種農家の建物群が高井地区に残り、それらは、国の重文になった塩原家にも、山王地区の養蚕農家建物にも勝るものであった。そういう歴史的経緯がある中で、山王地区をどう語るのか。山王地区だけが幸いに農家建物群が残ったという現状にある。それをどうやってここで説明をするのかが大きな課題である。

(戸所副会長)

福島さんは蚕種製造だが、福島蔵之助さんは明治から代々総社町町議や町長を務め、昭和29年の合併後もしばらく前橋市議会議員であった。

(村田副会長)

数年前、国の指定から養蚕農家はなくなり、蚕種製造農家、蚕種製造民家になった。なぜかというと、ほとんどの家は種は作っていなく、繭を製造しているだけであった。このため繭製造民家と蚕種製造民家で分けている。数年前に建築学会の文化審議委員会などで、私が提案し、皆そうだろうとなった。以後、蚕種製造農家、養蚕農家という認識となっている。養蚕の歴史の中で、そのあたりも言わざるを得なくなる。山王にあれだけあれば当然、数件は種屋がないとやっていけない。田口の塩原蚕種が国の指定になっているが、総社だけに限らず、繭製造にとって、種屋は非常に重要である。少なくとも民家の一覧表にそれが書いてあるべきではないか。全て養蚕農家となっており、そのうち種があるのかないのか分からなかった。今後、調査をやる段階になれば、そのあたりもポイントになる。

(戸所副会長)

山賀倉庫が今回は掲載ができないとしても、なんらかの形で保全に繋がるようなシステム作りを考えていただけると良いと思う。

(2) 計画策定後の協議会のあり方について

事務局より、資料に基づき説明があった。

(2)に係る質疑応答

(後藤委員)

裏面の歴史的建造物移築・復元等検討事業だけでなく、歴史的建造物保全支援事業もそうであるが、検討するべきは、文化財価値をいかに残すかであって、価値のあるものも残したつもりで、その後価値を失ってしまったというケースもあるので、事業に載せてやるものは、価値も残しつつ良い活用ができれば良いわけである。未使用のものも移築・復元と書いてあるが、その場所で上手く手を入れてリノベして活用できたりもするので、移築・復元だけではないのではないか。歴まち法の事業でやるものについては、専門的な見地で一度チェックする体制を築くことが必要なのでないか。そこを確認しておきたい。

(事務局(高瀬課長補佐))

移築も復元も、買い取もその場でのリノベも色んなものを考える組織、体制としてこの事業を考えていきたいと思っている。名称が良くないかもしれないが、イメージはそんなところである。

(後藤委員)

是非名前を工夫していただき、復元よりもその場で残す方が、優先度が高いし、色々なことが含まれる形なので、そういうイメージがつくような名前にしていただければと思う。

(戸所副会長)

文化財保護法に基づく保存活用計画について、前橋市としてどう考えているのか、歴まち計画とどうリンクしてくるのか教えていただきたい。

(事務局(上野課長))

計画に関して現状は、基礎的な調査をしているところである。まだ計画を策定しますと明確に言っているわけではない。ただ必要性は十分に承知しており、他市町村で策定済みになっているところもある。ご意見いただいたとおり、策定に向けて進めていきたい。

(事務局(高瀬課長補佐))

歴まち計画とどうリンクしていくかだが、まだ今は歴史的なものに関する組織として、文化財保護課が教育委員会にあって、都市計画課、文化国際課とそれぞれでやっているが、この10年の中でどう取り組んでいけば良いのかを考えていく中で、保存活用地域計画を上手く使って、例えば未指定建造物の調査にあてるなど、色々展開の仕方はあると思うので、随時検討していきたいと思う。

3 その他

(戸所副会長)

先ほどの議題の確認だが、検討いただいた地図に関しては、補足資料の122ページにある図面は直っているが、135ページ、142ページ、153ページについては、城下町があった辺りと、山王地区のところにある図面の縮尺が違う。例えば、天狗岩用水、五千石用水などが繋がらずにずれている。前にも指摘したが、これを直すことになっているのか。

(事務局(高瀬課長補佐))

皆さんに渡した地図は5枚くらいの小地図を切り貼りして繋げてあるのだが、下の元総社のところに全然違う地図が貼ってある。縮尺の問題ではなく、操作上のミスがあったようである。122ページの地図は正しいものが貼ってあるが、以下コピペした時に、パソコンシステムのレイヤーの違いでずれてしまったことがわかったので、印刷会社に伝えて、きちんとした地図ができあがってきている。

(後藤委員)

協議会で指導しながら移築、復元だけでなく、整備や保全など色々なことを進めていくことは結構だが、携わる工務店や、設計士が、こういうものに慣れた人が手掛けた方が絶対に良くて、やったことのない人がやると必ず上手くいかないという事態が起きてくる。しっかりとするには、村田先生がヘリテージマネージャー育成などやっているが、歴まち法の中で言うと、歴史的風致維持向上支援法人という制度があり、例えば建築士会を支援法人にしていただいて、然るべき方を推薦いただき、その中で入札するなど、ちゃんとした人にやっていただくような法的な整備が歴まち法にはある。また、前橋市内で保全に関わる様々な活動をしている支援団体の方も、支援法人になっていただくことが可能である。すぐにはできないと思うが、歴まち法を進めながら最初の5年くらいで上手く確立していけばいいので、是非前橋市の方で支援法人の仕組みを上手く使うことも視野に入れながら進めていくことを念頭に置いてほしい。

(事務局(原澤副主幹))

次回の協議会については未定だが、今回の協議会で指摘いただいたところの修正や、今後の手続きの進め方は随時皆さんにお知らせしていこうと思っている。

4 閉会

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更新日:2023年02月01日