前橋空襲と復興資料館検討委員会令和4年度第2回会議

審議会名

前橋空襲と復興資料館検討委員会

会議名

前橋空襲と復興資料館検討委員会令和4年度第2回会議

日時

令和4年7月29日(金曜日)午後3時00分~5時00分

場所

11階南会議室

出席者

委員:手島委員長、岩根委員、吉良委員、新井委員(文化スポーツ観光部長)

事務局:原田生活課長、小田副参事(生活課)、大友副参事(文化国際課)、大島主任(文化国際課)

傍聴者:5名

報道:上毛新聞社

 

欠席者

田中文化国際課長(事務局長)

議題

・前橋空襲についての学習会

1.菊池実氏(立正大学非常勤講師)

米軍史料から見た前橋空襲の実像(昭和20年8月5-6日)

2.田名網雅久氏(元あたご歴史資料館調査員)

米軍が撮影した空襲後の前橋の資料について

・次回以降の会議日程及び視察日程を調整、確認

会議の内容

1 開 会

 

2 挨 拶

手島委員長が会議の開催に当たり挨拶した。

 

3 議 事

議事冒頭に新井委員から、ぐんまマチダ戦争と平和資料館所蔵資料の寄附受入れの報告及び手島委員長から、上毛新聞社の「点描群馬経済」に寄稿された前橋空襲関連の記事の紹介があった。

 

(1)前橋空襲についての学習会

【講師】1.菊池実氏(立正大学非常勤講師)

別紙1に基づき講義

初めに、米軍史料から見た前橋空襲の実像について、今回は日本軍の資料も併せて紹介したい。日米両方から見た前橋空襲の実像についてお話ししたい。

これまでの全国や群馬県内の空襲記述、自治体史を確認すると、大本営と軍管区司令部発表や新聞記事などを使用するなど根拠不明の数字をもとにしている場合が多く、事実からかけ離れたものが非常に多かった。私が前橋空襲について調べた資料についてであるが、攻撃した側の米軍史料を収集、翻訳・分析している。B29、艦上機空襲、偵察機についての資料を集めている。B29については作戦任務報告、空襲損害評価報告書。艦上機については、米国海軍・海兵隊艦上機戦闘報告書。これらの資料については、米国国立公文書館にあり、日本では国立国会図書館憲政資料室にある。今はインターネットで閲覧可能である。また、米国第311航空団、第3写真偵察戦隊戦闘報告書はまだ国会図書館でも入手していない。こちらは米軍アラバマ州マックスウェル空軍基地歴史資料室に保存されている。そして、日本陸海軍史料の収集と分析を行う。戦時中の記録として関東地方の防空を担当したのが陸軍飛行第10師団、こちらは、命令綴がある。また、第302海軍航空隊戦時日誌がある。戦後の記録として、比較的早い時期の昭和25年に本土防空作戦記録、これは航空部隊の記録がまとめられている。昭和26年に本土地上防空作戦記録がまとめられている。これは高射砲部隊の記録である。その他の資料も併せて、防衛省防衛研究所戦史研究センターで所蔵されている。

日本本土に対する米軍B29の空襲について。マリアナ基地からのB29による日本本土空襲は、大きく分けると3段階になる。第1段階は昭和19年11月24日からの航空機工場を目標とする高々度昼間精密爆撃。昼間に編隊を組んで、高度1万メートルから主に航空機工場を目標として精密爆撃を実施。これは、ほとんど効果はなく、この作戦を指揮したハンセル准将はあまり効果があげられなかったため後に解任となった。第2段階は昭和20年3月10日からの東京大空襲にはじまる大都市夜間大量焼夷弾爆撃である。日本上空では夜間のため、編隊は組まない。高度は、約半分に降下して、4~5千メートルの高度で、空襲をする。第3段階は昭和20年6月17日からはじまる地方中小都市に対する夜間焼夷弾爆撃である。大都市空襲、地方都市空襲の間が空いているが、この間は、アメリカ軍は沖縄戦に主力を尽くしているので、九州地方の空襲は行っているが、ほかの地方都市の空襲は行っていない。アメリカ軍の作成した無差別爆撃の目標計画順位表であるが、日本で180都市に番号が付けられている。最初の大東京から始まって、180番が熱海である。これは、米軍の空襲目標の都市である。群馬県ではどの都市が空襲の対象になったかというと、大都市である東京、大阪、名古屋が最初で、群馬県は、57番目に前橋市、58番目に桐生、67番目に高崎、126番目に伊勢崎になる。この中で、B29による空襲を本格的に受けたのは、57番目の前橋と126番の伊勢崎である。B29の作戦任務報告書、第14回中小都市空襲、8月5日から6日にかけての空襲は佐賀、前橋、西宮と御影これは神戸である。あと今治の5都市が対象である。これをまとめたのがこの作戦任務報告書である。米軍は、一般的に1都市に対して攻撃前の写真偵察と攻撃後の写真偵察を各一回実施している。前橋は、F13と呼ばれる、第311航空団撮影偵察部隊のB29が飛来して何回も撮影している。最初に資料で確認できたのは、昭和20年4月7日にB29によって撮影された偵察写真である。この写真には、中島飛行機分工場、理研、前橋飛行場、前橋市街地が確認できる。実際窓から偵察写真を撮っている。前橋空襲の攻撃前に任務として、昭和20年7月25日に写真偵察を行っている。攻撃後の任務つまり空襲の戦果を確認するための写真撮影を8月29日に行っている。さらに昭和20年7月31日午後8時10分警戒警報発令、同10時36分解除ということであるが、この7月31日の夜間に、米軍によるリーフレット心理作戦が決行されている。この作戦は、日本側で伝単と言われているもので、警告のこの都市をこれから空襲する、という都市の名前を列挙している。この伝単には前橋も入っている。これを7月31日にリーフレット心理作戦として前橋の市中に投下している。米軍の空襲損害評価報告書の目標概要が作成されたのが前橋空襲実行の12日前、7月24日作成である。ここで重要なのは、照準点(AIM.PT)102 072の記載である。実はこれが前橋を爆撃するときの爆撃中心点の数字である。これはリト・モザイクという横座標目盛り102、縦座標027を意味し、その交点が爆撃中心点になる。それではこの照準点を確認していきたいのであるが、こちらがリト・モザイクである。こちらが横座標、縦座標である。この数字の交点が爆撃中心点になる。この場所を確認したところ前橋空襲の爆撃中心点は現在の千代田2丁目、前橋テルサと、今はなくなってしまった麻屋デパートの中間である。当時の桑町である。この爆撃中心点を中心に半径4000フィート(1200メートル)の円を描くと、当時の前橋市街地の大部分が納まる。この爆撃中心点を目指して焼夷弾を投下する。50%の確率でこの円に投下すれば、前橋市街地は壊滅させることができるという米軍の作戦である。

B29の参加機数と航跡について。まず、マリアナ基地テアニン北飛行場の第313航空団所属の3個群団が配置されていた。当日の手持ち機数143機である。このうち出撃したのは、先導機12機、先導機には大きな役割があるが、それは後ほど説明する。部隊主力は90機、3機のレーダー対策機、1機の風程観測機、1機のスーパーダンボ機(救助機)の計107機、人員1,182名が参加した。1番機の離陸は8月5日15時29分(日本時間)、最後尾機の離陸は8月5日17時1分(日本時間)、全機の離陸に1時間32分を要している。部隊主力の陸地接近は、日本本土接近は8月5日午後9時17分から午後11時43分でした。なぜこんなに時間幅があったのかというと、日本上空では夜間になるので、編隊は組まない。テニアン北飛行場を離陸したら、そのまま単機で日本本土に向かい、日本本土に入り、単機で順次空襲を行うからである。

爆撃航程と爆撃方法について。爆撃方法は夜間、レーダーを使っている。当時のレーダーはあまり精度が良くない。日本本土上空に入ってから、攻撃始点である霞ケ浦北端をレーダーで捉えたら、そこから前橋まで水平飛行し、高度を一定に保ち向かう。前橋に向かうにあたって一番目印になるのが、利根川である。利根川に沿って、向かい、利根川の橋も目印になったそうである。それは米国の記録にも記載されている。当初の予定は99機の出撃予定であったが、若干増えている。先ほどの爆撃中心点の半径4000フィートをご覧いただいたが、この目標円内に50%の確率で焼夷弾を投下すれば、前橋市街地は壊滅できるという作戦である。先導機と部隊主力機の計102機、当時の計画より若干増えているが、このうち実際、前橋上空に到達したのは92機であった。途中機械の故障で引き返した機もあり、前橋を確認できず、違う都市に空襲をした機もあった。当時のレーダーは投弾の制度に限界があり、そこで優秀な爆撃手12名を選抜し、12機の先導機に乗り込ませる。先導機の役割は、目標に先行投弾、最初に爆弾を投下することである。先導機が投下した爆弾による火災を目印にして、後続機が投弾する。レーダーの精度が良くないので、地上の火災を目視してそこを目印にして焼夷弾を投下する。火災が起きた地点が爆撃中心点ということになるので、そこに焼夷弾を投下する。でもそれでも50%の確率で円内に落とせば前橋市街地が壊滅できるという作戦であった。実は、最初の投弾が目標を外れている。市の北西部に第1弾が投下されている。米国の資料では、リト・モザイクが不正確だったからと記載されているが、リト・モザイクは正確でした。恐らく最初に投弾した先導機が目標を誤った。市の北西部に投下した。しかし、後続機は目標にほぼ正確に投弾している。

この写真はB29の先端であるが、ここに爆撃手が座っている。ここは操縦士になる。米国側が恐れたのは地上の高射砲部隊、特に群馬であれば、太田の部隊に気を付けていた。

米国の爆弾の種類と目標投下について。まず前橋市街地、これが第1目標である。12機が先導機、そして80機が爆弾投下。4機が前橋を捕捉できずに、館山海軍基地に2機、銚子に2機が爆弾を投下した。米国の資料を見ると、時間の記載に誤りが認められる。投爆時間を日本側で確認すると8月5日22時28分から6日24時08分高度4560から5070メートルになる。ここでどのような爆弾が投下されたかというと、M19-500ポンド通常集束焼夷弾。これは、一つの集束焼夷弾の中に38個のM-69ナパーム焼夷弾が入っている。つまり3866個だとM-69ナパーム焼夷弾13万1290個分になる。前橋の街に13万を超える焼夷弾が落ちてきた。もう一つは、これはとても恐ろしい爆弾で、T4E4500ポンド破片集束弾である。これは当初計画にはなかった。でも各B29に1発積み込んだのである。これは破片集束弾で、20発の小型爆弾が入っている。なぜこの爆弾を各機に1発積み込んだかというと、消火活動にあたる人員の殺傷用、防火設備の破壊用である。これは焼夷弾を投下後に投下される。地上では当時の政府、軍の方針では、消火活動にあたれ、持ち場を離れるな、と盛んに言われていた。米国はこの状況を知っているので、消火活動にあたる人員を殺傷するために、破片集束弾を落としている。この爆弾は現在クラスター爆弾と言って大変残酷な爆弾と言われている。その他にもう一つANM64500ポンド通常爆弾、これは先導機に持たせている。先導機が先ず爆撃中心点を投弾するために通常爆弾を落として地上で火災が発生する。後続機がそれを目印に焼夷弾を落とす。そして最後に破片集束弾、クラスター爆弾を落とす。こういった方法で前橋の空襲を実行した。ところが日本の軍部はB29がこの残酷なクラスター爆弾を落としたという事実を公表していない。なぜかというと、先ほど少しお話ししたが、爆弾の性能を知って市民が恐怖心を起こし、消火活動を止めて逃げてしまわないように、公表しなかった。本当にそうなのかと思い、日本側の資料を調べた。これはB29の内部の写真である。これは集束焼夷弾、38個のナパーム焼夷弾が入っている。これは破片集束弾、クラスター爆弾である。1発で、この中に20発の小型爆弾が入っている。これが投下されると、上空のある一点で小型爆弾が爆発して、小断片となって地上に降り注ぐ。非常に危険な爆弾である。これを日本の軍部が知っていたか、どうかということが問題である。防衛省防衛研究所戦史研究センターで確認したところ、日本海軍の航空技術廠支廠が昭和19年に米国の爆弾と題した報告書の中に図面が記載されている。これは不発弾を回収している。B29が、日本本土空襲に先駆けて、南方で訓練をしている。その時に落とした爆弾で不発弾のものを日本軍に回収され、この様な報告書として昭和19年の段階ですでに軍部は把握していた。実は海軍だけでなく、陸軍もこのことを知っていた。陸軍の資料もある。つまり日本の陸海軍は、米軍が破片集束弾を使用していることを把握していた。しかし、全く市民には知らせていなかった。

これが集束焼夷弾の図である。1発の集束焼夷弾の中に38個のM-69ナパーム焼夷弾が入っている。これが落とされて、上空で加速して、それが地上に落ちてくる。多くの人は亡くなりましたけれども、火災によって亡くなった方も勿論いるが、実はこれの直撃を受けて、多くの人が傷ついて、火災から逃げられなくなり、亡くなった人がかなりいるのではないかと思う。当時としては、亡くなった方を細かく調べることができないので、空襲の死者ということで、一括で葬られていると思う。このような爆弾が13万何千個と上から落ちてくる。破片集束弾とかにより、命を落とした人々がかなり多かったのではないかと思う。

B29が色々と偵察を行っていた。この写真は東京の1万メートル上空から撮影したものある。東京湾、三浦半島、房総半島、相模湾このようなかたちで、日本の本土上空を偵察して空襲を実行した。これに対して、関東地方の防空を担当していた陸海軍はどのように対応していたか。偶然に資料を確認できた。該当師団の命令綴はあったが、8月5日、6日の資料は綴じられていない。別の資料に綴じられていた。それを確認した。まず、B29側の報告書では、30から35機の日本軍機を搭乗員が目撃。日本軍機による14回の攻撃のうち5回は積極的であった。交戦で100発の弾丸を消費。1機が損害を受けた、との記録がある。米軍側の資料では航空司令部の計画記録によると1945年7月1日から9月2日間の記録の中には大阪と前橋の空襲の際に、14回の日本軍機の攻撃があったが、それが夜間作戦中の最高回の敵機攻撃であった、と記載されている。一方、陸軍の飛行戦隊の邀撃(今の言葉で言うと迎撃)について。5日午後8時までに、警戒戦備甲の態勢、今夜空襲がある。これは、マリアナの放送を日本側が傍受していた。マリアナ基地の動きが活発化していることを把握していた。午後9時警戒警報。同13分、各戦隊に非常戦備下令午後9時19分、群馬新田飛行場の112戦隊4機を大宮上空に出動させている。以後34機が邀撃に飛び立っている。B29は単機で日本上空を夜間に入る。九十九里から入るのと、鹿島灘から入るのとあり、B29は、単機で、時間差で、入っていく。霞ケ浦上空を攻撃開始地点にして前橋に向かう。邀撃に飛び立った日本軍機は、午後9時45分埼玉南部から東京東部上空に展開している。まだこの段階では北関東が空襲されるということは判らなかった。午後10時2分、112戦隊に前橋上空への移動を命令している。空襲の意図を察知したのは前橋が空襲される23分前である。霞ケ浦北端から北上して西に向かっているとの情報があり、まだ空襲のされていない北関東地方が危険と判断し、邀撃機28機が前橋・高崎上空に展開した。それぞれの陸軍の飛行基地から邀撃に飛び立っています。米軍側の資料によると、日本陸・海軍機にコードネームを付けている。

例えば、1式戦闘機はOSCAR、2式戦闘機はTOJO、2式双戦闘機はNICK、3式戦闘機はTONY、4式戦闘機はFRANKなどです。米軍側の資料にはこのようなコードネームで記載されているので、それを確認すると、前橋・高崎上空に展開した日本軍の陸軍機は米軍の呼称で、NICK、第53戦隊の呑龍である。また4式戦闘機疾風、米軍呼称FRANK、あとは、これは有り得ないことだが、米軍側の資料では、米国呼称BAKA、桜花を確認したそうだが、これは自力で飛べないので、あり得ない。一方地上高射砲部隊の配置は、B29では太田と銚子で対空砲火に遭遇した。ただ、乏しく、不正確であった。目標でも中口径砲と重砲の攻撃、これは乏しくて不正確であった。前橋、高崎に展開されていた高射砲部隊は横浜、首都圏に展開していた部隊で、もう首都圏が空襲されて、壊滅状態で、高射砲部隊も必要ないので、まだ空襲を受けていない北関東方面に展開させた。前橋と高崎の以東に主力を展開させた。高崎では、新高尾、大類・競馬場、前橋では、六供、元総社である。照空隊は、粕川、宮城、富士見、箕輪、相馬ヶ原、西横手、藤岡方面に展開していた。こちらの写真左が、日本軍の照空灯である。右が高射砲である。

空襲を終了したB29の帰還と空、海救助について。テアニン飛行場に1番機の着陸が8月6日午前5時9分、最後尾機の着陸が8月6日午前8時8分であった。硫黄島に15機が不時着している。平均飛行時間14時間26分である。損失機0機、損傷機1機、これは日本軍機との交戦である。作戦参加人員1,182名中死傷者は皆無でした。そして米軍側の資料によると、空海救助で、航路に潜水艦、水上艦艇、スーパーダンボ(救助機)などを事前に配置していて、空襲が終わって損傷した機体が海上に不時着する、その場合の救助ができるように体制を整えている。

これは空襲後の前橋市街地の写真である。8月29日撮影である。リト・モザイクの存在とB29のよる投弾方法から明らかなように、当時米軍といえども夜間に周辺部から焼夷弾を投下して市民の退路を断ち、そして中心部へ焼夷弾や爆弾を落とすような精度の高い技術は持ち合わせていなかった。しかし当時の新聞、最近まで戦後もずっと米軍側は、前橋の周辺部から焼夷弾を投下して避難する市民の退路を断ち、中心に焼夷弾を落とした、という事を多くの人が語っていた。 実際はそうではなかった。ただ、避難が遅れて、退路が断たれて亡くなった人が多かったと思われる。第一弾の先導機が間違って、最初に落としたのが、ここです。ちょうど円内から外れるこの辺りである。そしてここは麻屋があった場所である。ここが爆撃中心点である。比刀根橋がここである。多くの犠牲が出た防空壕がある。南には前橋駅、東には勢多農林、ここが敷島国民学校である。そして、ここが県庁である。この円内に50%の確率で焼夷弾を投下すれば、前橋市街地を壊滅することができる方法であった。市街地の破壊について詳細に分析している。計画された目標域は1.3平方マイルとしてその破壊77%。戦後まとめられた前橋市の公式記録の「戦災と復興」でも8割が焦土、死者535名、これは当時の前橋市のみの死者である。周辺に焼夷弾が落ちているので、その人数を併せると、前橋空襲の犠牲者は587名である。当時昭和20年の前橋市の人口は7万9,155人である。

「戦災と復興」で、記載されている証言も色々と検証してみると、米軍側の記録とあわせてくると、間違いがあるのだが、貴重な証言が載せられている。米軍の攻撃様子を見て取れる証言も多々ある。

今後空襲の実像を知るためには、米軍側の上空の意図、地上がどのような惨劇を受けたか。各種の体験記。軍・民間との照合。米軍史料の分析は日本側史料の空白部分を埋め、さらには日本側の伝聞・憶測の誤りや軍発表の虚構を克服できる。日本各地の空襲・戦災史の新たなまとめが必要である。戦後大本営の発表や、東部軍管区の発表がずっと生きてきた。簡単ですが、これで私の発表を終了させていただく。

 

 

手島委員長

詳細に要点をまとめていただき、ありがとうございました。

 

【質疑応答】

岩根委員

菊池先生は以前にも論文を書かれまして、拝読して、参考にさせていただいている。今回は更に深めて、ご報告いただいた内容であろうと思っている。米軍史料側の前橋空襲の実像では、現段階では一番進んだ内容ではないかと受け止めている。渋川の行幸田で、同じ日、同じ時間に空襲を受けて、一名亡くなった記録がある。渋川の行幸田は利根川を越えている。

 

菊池氏

前橋空襲をしたB29は、利根川を越えて、編隊して、反転した。

 

岩根委員

帰り道ということか。

 

菊池氏

そうである。そして最後に2都市に別れた。

 

岩根委員

高崎にも落とした。

 

菊池氏

利根川を越えて、編隊する。その過程で。

 

岩根委員

行幸田の場合は帰り道か。

 

菊池氏

あくまでも50%は円内に、それ以外の50%は周辺に散らばる。その一つである。

 

岩根委員

高崎は、帰りにやられたという証言がある。

渋川も帰りと考えるのでしょうか、しかし資料を見ると、前橋空襲にはいる時間と、証言の時間が一緒である。

 

菊池氏

単機で入ってくるので、結構な時間差がある。

 

岩根委員

勝手にいって行ってしまったという可能性もあるか。

 

菊池氏

恐らく早い時間であれば、先導機が落とした、それが、一番可能性が高い。

 

岩根委員

渋川空襲は前橋空襲の時だったということが記録に残っていてよく話に出るので、理解できた。

 

吉良委員

貴重な、的確なご報告ありがとうございました。私は横須賀市史の編纂をしており、アメリカにも史料調査に参りましたし、本日お話を伺って、なぜ常陸沖から入っていって、横須賀方面、三浦半島の一番の海軍基地にいかないのか。その米軍の戦略をしばらく忘れていたが、思い出した。皆様、ご存じのとおり、米軍は上陸した時に必ず横須賀海軍基地を使うので、本日の話を伺いながら思ったが、実は攻撃を横須賀は受けていない。米軍が日本全体の戦争を終了させるために、自分たちが、占領した後に何をその後するのか、時間系列の中で、米軍が計画を立てていた。そのことを本日、まざまざと見せつけられた。横須賀市民は被害がないが、前橋の市民にとっては、悲惨なものである。前橋だけに限らず、米軍の戦略を、実地、つまり日本側との関係で、ご教授いただいて、大変勉強になりました。立体的に考える必要があると思っている。

 

新井委員

質問ということではないが、先生のお話の中で、爆弾の種類、いわゆる破片集束弾、非常に残酷な爆弾が前橋には使われた事で、前橋空襲の悲惨な状況を再確認した。これは後世にも伝えていかなければならない。

 

手島委員長

爆撃中心点に落としたはずの1弾目は、麻屋の所には投下されなかったのか。

 

菊池氏

最初の1弾は、半径4000フィートの圏内の北西部の隅です。前橋工業学校、共愛女学校のあった場所である。

 

手島委員長

「戦災と復興」にも、第1弾は、前橋工業、共愛学園に落ちた。これは麻屋の所にいくわけだった。

 

菊池氏

米軍側は、リト・モザイクが不正確だった、としているが、リト・モザイクは正確であった。先導機が誤った。

 

手島委員長

今、全国で、爆撃中心点に碑を作ろう、という話がでている。爆撃中心点はどこか。

 

菊池氏

テルサと麻屋の間の辺りである。

 

手島委員長

後日、資料館開設までに正確な場所を教えていただきたい。

また、高射砲の前橋六供、元総社は、具体的に場所はどこになるか。

 

菊池氏

正確な場所は分からない。当時、本来ならば、コンクリート製であるが、簡易の木製であったため、撤去されている。高崎の競馬場にもあったのだが、確認できない。調べてみる。

 

手島委員長

資料館ができた時に、地図を作って展示できればよいと思っている。

ところで、戦後60年で、聞き取り調査をした時、街中で料亭をしている反町さん、女性の方の話によると、清王寺の方面に避難した。本人は大丈夫だったが、近くにいた子が何か当たって痛い、と言っていて、亡くなった。なぜ私だけ当らなかったのか不思議だと語った。これは集束弾のせいか。

 

菊池氏

細かい断片で、降り注いてくるので、多くの人に当った可能性は高い。筒が上空から落ちてくるので、それが直撃した人も多いと思う。

 

手島委員長

当たって亡くなった人もいるが、私(反町さん)は、走って逃げられた、生と死とはこういうものか、と思ったそうだ。

 

菊池氏

細かい断片が降り注ぐ中、うまくそれが当たらなかったと思う。奇跡的である。

 

手島委員長

証言の画像が残っているので貴重な資料だと思う。

 

菊池氏

「戦災と復興」のなかにもこれは破片集束弾だ、と思われる証言が沢山ある。かつお節型した断片が沢山落ちてきた、といった証言もある。

 

手島委員長

群馬師範、今の大学生である。この人々は、富士見村や北橘村の方に避難しました。そこから空襲をみると、米軍は、周りから投下して、北からうまく空爆しているという証言がある。見ている証言なので、否定はできないが、実はそうではないと、言えばいいのか。

 

菊池氏

前橋の場合は、初めに北西部、前橋市街地から外れるところから投下されて、後続機が爆撃中心点に投下していて、順次入ってくる後続機はその火災を目指して投下している。夜間で、目視で投下しているので爆弾は、周辺に拡散する。その結果、周りから投下しているように見えたのではないだろうか。

 

手島委員長

帰りに渋川、高崎に投下しているし、ネットでは高崎・前橋空襲とも掲載されているが、前橋空襲の定義や範囲はどうすればよいのか。どう資料館で展示したらよいのか。

 

菊池氏

私は8月5日から6日の米軍の作戦、前橋を空襲して、余った焼夷弾を旋回して帰る途中で落としていく。これは様々な作戦で行っている。こういった被害も含めて前橋空襲の結果的な被害としてとらえるべきだと思っている。あくまでも前橋市街地に限定せず、米軍の作戦行動の一環としてとらえる。

 

手島委員長

先生の死亡者の数は高崎も入っているのか。

 

菊池氏

高崎も入っている。米軍の同じ作戦の空襲でと、考えている。

 

岩根委員

前橋の最初に共愛学園あたりに落としたということだが、東の泉沢に落としたという証言がある。「戦災と復興」を見ると、そこから入ってくる。すると、前橋に入る前に泉沢で亡くなった方がいる。帰り道に落とすだけでなく、来る際にもそういうことがあり得るか。

 

菊池氏

あると思う。中心を狙っても50%の確率でしか落とせないので、周辺に拡散する。僅かな差で周辺に事前に落ちたのはあると思う。

 

岩根委員

編隊を組まないで、単機の個別攻撃のためか。

 

菊池氏

そうである。

 

岩根委員

証言として受け取る必要がある。

 

 

【講師】2.田名網雅久氏(元あたご歴史資料館調査員)

別紙2に基づき講義

米軍が撮影した空襲後の前橋の資料についてお話したいと思っている。こちらの表紙にあたる部分は米軍が撮影した映像を静止画にして、切り取って繋げたものである。こうすることで前橋の被害状況が、奥行があり、拡大図的に見える。

次に誰か撮影したのか。米国陸軍通信隊である。米国陸軍通信隊とは、1860年(安政7年)に設立。諸兵科連合の指揮統制のため通信や情報システムを制作管理する米国陸軍の支部。ポートフォリオと新技術(軍事情報、天候予測、航空関連を含む)に対する初期段階の責務を担う。日本でいう江戸時代に設立され、当初は、司令部と前線の間に電柱を立てたりして電信通信を行っていた部隊であった。それが次第に写真や映像、フィルム、ムービーを使って、各部門から派遣されて集まっている部署に情報を集め、情報を共有することを行っていたようだ。初期段階の責任を担う、というのは、最初のそれを撮影して、責任をもって必要な部署に届ける。例えば海軍とか、爆撃調査団とかである。ムービーカメラやスチールカメラを持った人たちが、写真撮影、資料を記録して、それを司令部に帰ってまとめて報告するという形をとっていた。どのような状態かと言うと、左の写真には写真の束が写っている。その裏側にキャプションや情報をタイプアップしている。右の写真も同じく通信隊の兵士である。左はフランスで撮影されたものである。右は恐らくイギリスで撮影されたものである。どのような目的のために通信隊は撮影したのか。基本的には、戦果の記録収集とその分析をするために特化されていた。資料(記録メディア)の種類と詳細。地上映像に関しては、モノクロフィルム、音声収録なし。尺は約6分20秒である。航空映像はモノクロフィルム、音声収録なし、尺は約3分29秒である。この地上と航空映像はおそらく違うカメラである。なぜかというと、縦横比が違う。その他に地上写真、航空写真が各8枚存在している。いつ撮影されたか。地上映像に関しては昭和20年(1945年)10、これはアメリカの公文書館の資料目録にあり、10月までとしか書いてありません。航空映像に関しては、同じ目録の中に10月12日。地上写真は、後にキャプションが入っていて10月10日、10月14日。航空写真に関しては10月20日。航空写真と航空映像は同じような場所を写しているが、2日にかけて飛行機を飛ばして撮影している。地上映像について。三脚を使っている。車両と徒歩で中心市街地を移動したとみられる。ムービーのカメラマンと通常のスチールカメラマンが同行していた。これは後で説明する。航空映像について。セスナ様の小型航空機で撮影。大胡城本丸を中心に周辺を執拗に撮影している。地上写真について。前橋中心市街地と大胡本丸跡を撮影している。前橋市街地に関しては、映像撮影者と同行していたと推測される。航空写真について。先ほど申し上げたように、ムービーと別の日に撮影している。これもセスナで撮影されている。これから、映像と写真を見ていただく。映像が流れるが、音がない。

【映像と写真の放映】

その他の関連資料についてご紹介をしたいと思っている。

「The Last Bomb」、「Target Tokyo」、「Birth of the B-29」この映像はユーチューブでも見ることができる。「The Last Bomb」には前橋を空爆した313航空団の実際のフィルムがかなり入っている。テニアン島、グアムにいた司令官カーティス・ルメイン将軍も出演している。この作品は第17回アカデミー長編ドキュメンタリー賞にノミネートされている。実際に受賞式にカーティス・ルメイン将軍と右腕の准将が出席している。「Target Tokyo」はナレーションが元アメリカ大統領のドナルド・レーガンである。これも空襲について有名な映像だと思われる。「Birth of the B-29」これもB-29についてのビデオである。他にも沢山ある。パイロットの訓練用のビデオとか、製造過程とかB-29を知るうえで貴重な資料ではないでしょうか。ここで前橋を攻撃した兵器はどのようなものだったのかイメージがあってもいいのではないでしょうか。先ほどの映像は最初全く分からなかったが、今お見せしているスケッチと写真が出発点である。左の映像からの切り取り画像は前橋電気館で、立川町通りにあった映画館である。そのアーチの奥に見えるのが、新昇ホール、ビアホールであった。右側が群馬の方ならだれでも暗唱できる上毛かるたの絵札を描いた小見辰男さんのスケッチである。昭和20年10月7日に描いている。この二つは全く同じエントランスホールである。これが調査のスタートになった。次にこの少し右側電気館から出て、少し離れたところ。これも同じように焼け野原である。立川町通りから銀座通りまで建物がない状態である。地図で確認すると映像が電気館のほうから手前に向かってカメラが向いている。これが先ほどスケッチされていた新昇のビアホールである。

こちらは、左が地上写真、右が航空映像である。写真の中に屋根が焼け落ちてしまった蔵と三階建ての四角い建物がある。航空映像でも同じものが見られる。このように地上写真、航空映像を併せて場所を特定する作業をしてきた。次に左側の航空写真を拡大したものが右側の拡大写真である。こちらが麻屋である。ここが銀座通りである。ここが国道17号である。

資料の本質の転移について。空襲から77年の時が経過して戦果、戦災の記録にとどまることなく前橋の復興の記録となっていったと思っている。

早稲田大学の佐藤洋一先生が映像や写真のタイプについて体系的に論文を書いているので、使わせていただく。写真や映像にはオフィシャル、プレス、パーソナルの3種類がある。オフィシャルは概ね公費により一貫した意図で撮影されたもの。プレスは報道機関によって撮影されたもの。パーソナルは非常に幅広い視点で撮影されたもの。例えば鳥類の研究をしている人が戦後日本にいて、そういうものもある。

映像や写真のもつ記録の多層性について。時空間記録は日時、場所、人物の特定。行為記録は撮影者の意図、方法、時代背景による状況。メディア記録はフィルムかデジタルか、カラーかモノクロか。SDカードとか細かいことになるが、記録媒体といった経緯記録。どのような経緯を辿って目前にあるのか。先ほど少し話した写真の後のキャプションとか。例えば、左が地上写真、右が地上映像の切り取りである。これらから分かることは、影の方向が一緒である。天気も両方とも晴れている。地上映像には10月としか記載がなく、地上写真には1945年10月10日という記載がある。同行していたのであれば、同じ日の撮影ではないかと思われる。地上映像の経緯記録が消されているものが、恐らく極東アジアの上位司令部の整理番号である。こちらの地上写真のSC-290875は通信隊の整理番号である。撮影した日付と写真の内容、情報公開されたスタンプ、撮影者は誰か、このような情報が含まれている。

ムービーカメラマンとスチールカメラマンが同行していたどうかについて。同じ時間帯に撮影されていれば、同行していたと言えるのではないかと思われる。大工さんは一日中その現場にいるので、同じ時間にいたかとは判断できないが、垂木と言われ屋根の骨組みの部分は、6本と7本で、数がほぼ一緒である。また、帽子を被った同じ男性がいるので、ムービーカメラマンとスチールカメラマンは同行していたと思う。

資料から見えてくること。まちなかの情景からはB29の爆撃の威力、圧倒的な戦争のリアリティの顕示。この戦争という言葉は爆撃や空襲でも置き換えてもよいと思う。作業する人びとからは不屈の気概と忍耐力、前橋の焦土期の精神性、まだ瓦礫を片付けている段階、復興の胎動。戦災前橋復興舞踊大会については亡憂とやすらぎ、心の機微、暫しの安息。今でも芸能人が炊き出しや、歌などを歌っているが、この時から同じことをしていた。鼓舞激励をする側とされる側どのような効果があるのか見て取れるのではないでしょうか。最後に米軍通信隊の視点からは任務の本質と別様の記録。鞴(ふいご)に空気を送る男性の画像は戦果の記録と関係ないと思う。ご紹介できなかった写真には、かなり個人的な感想などが見えてくる部分がありますこれは立場を超えた人間性の表像ではないか、気の毒に思う気持ちが見えてくるのではないかと思う。この映像と写真を地域資源としてとらえ、1番目として必要な情報を多くの情報源から収集、整理、要約、公開(共有)する。2番目として地域資源として、その地域へ還元、里帰りさせる。なぜかというと、今、この映像を借りるにしても、何をするにしても、昭和館を通して申請等をしなければならず、かなり制約がある。三番目として映像や写真をどう収集、受入れするか、どのように見せる場をデザインするかということも重要である。この写真は、大胡城本丸下の中島飛行機が作った防空壕である。これは2017年に発見されたもので、まだ最近の話である。また、この写真は今年5月にでてきた。民間の出版社による前橋市の市制130年の写真集の出版にあたり、新聞広告による募集で応募された写真である。キャプションが付いていた。「防空壕の作業」昭和19年7月と思われる。この写真を持っていた方は、大胡城本丸から歩いて何百メートルの所に住んでいる方だったが、この写真を拡大して見てみると、略式制帽、略帽を被っている。略帽の徽章が海軍の碇のマークである。これはただの土木作業ではなく、軍事目的なのでは、と考えられる。先ほどの写真のように、声を掛けたり、探したりすれば、このようなものがまだまだ出てくるような状況だと思われる。先ほどの映像は、前橋で持っていてもよいのではないかと思う。インターネットで米国公文書館目録にMAEBASHI JAPANと検索すると、前橋の飛行場、今回見ていただいた地上映像、航空映像などがすぐにでてくる。どの様な状態で保管されているか、どのようなメディアにコピーされているか、細かい情報もでてくる。

私の意見であるが、米国側にある資料を前橋へ還元する。被写体が前橋の街の人々であることから、前橋にとって歴史的資料ととらえる事ができる。前橋の建物や人びとの映像や写真も地域の資源として扱う資格があるのではないかと、先ほどの前提のもとに考えられる。また展示や公開を計画する際、都度、企画書などの使用許諾の関係書類を作成・申請する必要がなくなり、利便性が高まり利用機会が増す。アメリカの公文書館に直接出向いて資料を取ってくるということでなく、公文書館の周りにエージェントが沢山あり、こちらの要望を頼むと希望どおりの形式で送ってくれる。公文書館でもこうしたエージェントは紹介している。日本人が経営しているエージェントもあり、日本語が通じるので、やり取りの問題はない。

期待される効果について。見たい、知りたいという人々の欲求を満たす。身近な地域社会の情景、例えば、広島と自分の街では多少違ってくる部分があると思う。過去の出来事を通して自ら考える機会を得ることを期待されると思う。

 

【質疑応答】

岩根委員

写真の力を目の当たりにして、大変感動した。戦災の実体を写真から、復興の記録としての写真の利用はかなり可能と思う。特に素早く復興に動いている姿が写真に写っている。動く力になる、と思う。米軍が大胡城跡を撮影しているのは、中島飛行機の地下工場があったことによるのでしょうか。

 

田名網氏

その件については、菊池先生の方が詳しいが、海軍の飛行機を作っていたのは小泉工場で、系列の下請けの部分が尾島工場、伊勢崎工場である。伊勢崎工場の疎開先が大胡である。

 

岩根委員

それで、米軍は戦後大胡を撮影しているのか。空襲の写真とは別の感じである。なぜ大胡なのか。

 

田名網氏

「戦災と復興」にも先ほどのフォード大佐がでてきますが、後から写っていて、市長と一緒に何かの会食のパーティーの写真がある。この方はトップの方で、その人が現地調査をしている。地下防空壕は秘匿中の秘匿で、聞き取りなど、現地調査している状態である。

 

岩根委員

ありがとうございました。

 

吉良委員

本日は前橋空襲と復興資料館検討委員会。もう一つは、戦後史の資料を集め、編纂をする前段階としてこの企画が始まっていると思っている。いくつか先行している自治体がある。かなり前から最近まで、そういった自治体からヒントがあると思う。実は私は横須賀の調査でアメリカに行っている。先に横浜市が既に行っていて、大分経ってから横須賀市が行った。日本の空襲がおきた所、占領がおきて、実際占領軍が入った所の資料は、米軍が沢山持っている。戦後すぐに分かっていたが、資料の蓄積をできるだけ早く前橋でも行えるとよいなと思う。以外に簡単にできる。その後足りない物がある場合はアメリカに1人くらい行き調査に行ってもいいかもしれません。ネットでも大分出ている。文書を自分の目で見るといいと思う。できるだけ日本中に集まっているものを集めて前橋に特化したものをチェックするとよいと思う。アメリカに行く必要があるかもしれません。大きい都市は一巡している。その成果を貰いながら、2巡目は何に着目していくか。先ずは、日本中の資料チェックをするといいと思う。すると前橋が特に何をやらなければならないか分かるかもしれない。

 

田名網氏

私の考えであるが、市民学芸員さんに実際写真を持っていってもらい、その場に行っていただき、お年寄りの方や聞き伝えられている家族の方にそのことを聞き取っていただいく、そういった調査を人海戦術で、できるのではないかと思う。

 

新井委員

非常に貴重な資料を見させていただき、ありがとうございました。感想的な話しになるが、今年の5月にまた新たな写真が出てきました。まだまだ出てくるものがあるかもしれない。この資料館に色々な活用ができるかと思う。

戦争の資料は、聞き取りをするにしてもそろそろ限界に近い時期かと思う。この段階で、取り組むのはとても良いと思う。

 

手島委員長

大変緻密で、田名網さんでなければできなかったのではないかと思う。私は研究者でもこの様にはできないと思った。

吉良先生、大西比呂志先生も参加され、大手門大学でアメリカ側が撮影した写真の共同研究なされ、『占領期の都市空間を考える』という本を大学で出している。占領直後のアメリカが3班ぐらいで撮影している。軍関係だと、戦禍。占領だと地域の日本人がどのような習性を持っているか、といった形で撮る。3つくらいの班がそれぞれの目的を持って撮影している。それぞれ観点が違う。だから、前橋空襲だけではなくて、大胡の写真も出てくる。一連の写真を見ると大胡の写真だけ異質である。これが上から撮影していて、防空壕を撮っているわけではない。写している目的が違う。同情ではなくて関心で撮っているのではないか。溜桶を担いでいる人が珍しいらしく、3つの班で共通した映像で出てくる。それぞれ任務は違っても日本の習慣で面白いものを撮ったという分析を大手門前の研究グループはしている。そういった観点でもう一回前橋の写真は洗い直さなければならない。大胡の防空壕は秘密と言われているが、堂々と写真が出てきた。秘密で統制されていたならば、このような写真が焼き増しされて、昭和19年に民間に出回らないのではとも思い、不思議である。このような写真が沢山これから出てきて、色々な形で色々な人の目に触れることによって、全国的にも研究が進んでいき、そういうものと上手く連携させていくことは必要だと思う。田名網さんと原田さんの研究が非常に重要である。写真の映像を使った研究の基になったと思う。敬意を表す。

菊池先生、田名網先生方成果は展示に使わせていただけるか。また、図録を作って売ることは可能か。

 

田名網氏

映像に関しては昭和館のほうに企画書を提出して使用許可をいただいている。

 

手島委員長

使用許可を出せば、どのような形でも利用できるのか。

 

田名網氏

利用はできるが、作業の煩雑さとか、例えば、トリミングしてはいけない、とかそういった制約が出てくる。使用方法について。

 

手島委員長

写真の利用については。

 

田名網氏

米軍の撮った写真については、パブリックドメインという形で、自由に、制約がほぼない状態で使える状況になっている。

 

手島委員長

トリミングしないで、そのまま使うのならばよいのか。加工をしてはいけないということか。

 

田名網氏

加工、編集して他の意図が入ってくる、といったことを嫌がる。

 

手島委員長

平和資料館でそのまま使用することは、大丈夫か。手続きも書式どおりに書けばよいのか。

 

田名網氏

写真に関しては恐らく必要ないと思う。

 

手島委員長

昭和館に相談すれば、資料館に使えるか。図録で市の予算で有償になっても大丈夫か。

 

田名網氏

大丈夫である。

 

手島委員長

菊池先生、何か補足はあるか。

 

菊池氏

大胡の地下工場のことについて。

米軍はすぐに全国にある地下工場関係を調査している。群馬の場合は月夜野が大規模に作られているので、内部の簡略な図面まで作成している。それで、大胡の写真を撮っている。

 

手島委員長

上から写真を撮っているが、下にあると思って撮っているのか。

 

菊池氏

そうである。大胡城の本丸下に作られている。周辺にもある。私も初めて見た映像もある。それについては詳しくは分からない。

 

手島委員長

この委員会は資料館を作るが、大胡城に入って今、写真を撮ることは可能か。

 

菊池氏

今は入れないかと思う。

 

手島委員長

前橋の公園の堤の所に防空壕が作られていたが、今は埋めてある。大胡の防空壕は、どのような状態か。

 

菊池氏

今はもう分からない。私が調べていた時、大胡町の教育委員会の担当者に確認したところ、入れないとのこと。内部の写真は見せていただいたが、だめであった。少し外れた所にあった防空壕については、入れたが、もうだいぶ前のことである。急傾斜地なので、危険な箇所があり、工事が行われた。国交省が全国の地下工場などの特殊地下壕の実体調査をやっていて、危険な箇所は補助金を出して埋め戻し作業をしているので、群馬に限らず、全国で埋め戻しが行われている。

 

田名網氏

補足だが、大胡城本丸下は塞がっていてどこも入ることができないのか、ということだが、北側にある未完成の防空壕は、機械が搬入される前に終戦になったので、先月あるNPOと一緒に見学会ということで、地権者の許可を得て中に入らせていただいた。そちらは入ることが可能である。

 

吉良氏

米軍が撮って帰った写真や資料、文書も含め、各自治体は自分の地域の写真や資料を集めて帰る。他の自治体の情報はあまり持ち帰らない。最低限、日本の各自治体はどのくらいアメリカの資料を持ち帰ってきているか、情報を持っているか、緊急に調べることは可能である。各自治体で戦中、戦後史をやっていて、まずそれのチェックをやり、前橋に特化したチェックを絞り込んで、アメリカに行かないとならないかもしれない。他の自治体では前橋の資料までは取って来てはいない。最低限のことを緊急にやってみて、日本中のどこで、戦中、戦後史をどうやって資料を集めたのか。各自治体は、既にアメリカに行って調査をしてしまっているので、その後で、前橋とか群馬が落ちているのは、多々ある。そこに絞り込んで、一人くらいはアメリカに行ってもらうのもいい手かもしれない。やはりそれくらいしないと戦中、戦後史は。今アメリカも、戦後の資料を沢山出している。ただ、写真などのリストは制作していない。1回、一人くらいはワシントンに行ったほうがいいかもしれない。

 

田名網氏

今の話の中で、もしそのようなことが可能であれば、地上写真の中で、連番で抜けているものが、結構ある。まずそれを引っ張り出す。大胡の資料が後からで出てきたのは前橋と一言も資料の中に入っていないため、OOGO JAPANと書いてあったので発見が遅れた。今回、オープン操作で、自分でインターネットとか図書館で分かる範囲でしか調べていない。現場でお年寄りに聞いたり、家族に聞いたりはした。今インターネットが発達していて、ある程度資料に近づくことができる。手始めに欠けている連番の資料から埋めていく作業になるのではないか。

 

吉良氏

日本全国の戦後史でも、資料状況、調査状況を至急にやっておいた方がよいと思っている。それが大切だと思う。細かいことは後にして、一周遅れなのか、一周先を走っているのか分からないが、前橋は、先駆者の自治体の情報だけは急きょチェックなさるといいと思っている。

 

手島委員長

動画とか見ていて不思議に思うのは8月5日とか終戦から2か月経っている。もう少し賑やかな人々の動きは出てこないのか。そういったものは除いて撮っているのか。

 

田名網氏

航空映像や写真で見ると、小屋組みがあちらこちらにできている。柱だけで、屋根が掛かっている。重機が当時ないので、馬と馬車を使っている。ここの映像からも分かるようにまず、壊れた瓦礫を砕いてそれをバケツで運ぶ、といった状態なのではないか。大きなものをトラックで載せて運ぶことができない。

 

手島委員長

周辺の記録を見ると、前橋空襲は菊池先生の言われたように予測されていた。市役所が、周辺の町村長を集めて被害を受けたら、この様に動いてほしいと、伝達されていた。被害を受けたら、まわりの町村が炊き出しをしたりして食う米を町村は前橋のためにあげて、青年団が行って瓦礫を片付けている。ここにいる人々は自分たちだけで片付けたのではなく、まわりから人が行って手伝っている。そういった中で二か月経って、もう少し人々の動きがあるのでは。色々な記録を見ると、群馬銀行の本店は、被害を受けたが、竪町支店は大丈夫だったので、何ら経済活動に支障がなく、動いた、誇りに思っている、とある。それなので、本来なら営みが出てきても良いと思うが、あの映像を見ると本当に焼かれた所で、人はない。だから本当に前橋の戦後の様子を撮っているが、それぞれの意図があるから、人々の営みすべてを撮っていないと思うがいかがか。

 

田名網氏

いずれにしても、5、6分の映像なので、何とも言えない。意図的に復興が動いている状態を撮っているか、いないかはわからない。

 

手島委員長

この映像は大切なのだけど、語ることには限界があり、すべては入っていない。不屈の精神で立ち上がったように、この映像からは感じられない。そういった事を含めどう伝えるか、難しい。更にもっと色々な資料が必要。色々な証言を含めてトータルにあたれないか、と思う。これらの映像を色々なところで、田名網氏の資料も含め、大学の研究者に見てもらって交流するともっと発見があるのではないだろうか。

 

(2)その他

特になし

 

4 事務連絡

(1)令和4年度第3回会議以降の開催日程

次回以降の会議日程の確認

第3回会議 視察の振り返り

8月31日(水曜日) 午後2時 31会議室

第4回会議 第2回学習会

9月29日(木曜日) 午後2時 11階南会議室

第5回会議 第3回学習会

10月27日(木曜日)午後2時 32会議室

(2)先進地視察の想定スケジュール

当日の動きについて事務局から説明した。

 

5 閉 会

以上

配布資料

更新日:2022年08月29日