前橋空襲と復興資料館検討委員会令和4年度第5回会議

審議会名

前橋空襲と復興資料館検討委員会

会議名

前橋空襲と復興資料館検討委員会第5回会議

日時

令和4年10月27日(木曜日)午後2時00分~4時00分

場所

本庁舎3階32会議室

出席者

委 員:手島委員長、岩根委員、吉良委員、新井委員(文化スポーツ観光部長)

事務局:田中文化国際課長(事務局長)、原田生活課長、小田副参事(生活課)、大友副参事、大島主任(文化国際課)

傍聴者:7名

報 道:上毛新聞社

欠席者

なし

議題

前橋空襲についての学習会

1.小林 啓祐(周南公立大学准教授)

前橋市における2つの「戦災復興」

2.栗田 尚弥(國學院大學講師)

8月5日の防空戦

会議の内容

1 開 会

2 挨 拶

手島委員長が会議の開催に当たり挨拶した。

3 議 事

 

(1)前橋空襲についての学習会

【講師】1.小林 啓祐(周南公立大学准教授)

資料1に基づき講義

小林先生

今回話す内容は、2018年の高崎経済大学の公開講座で話した内容とほぼ同じとなっている。その研究が進展していれば良かったが、2020年に山口県に転職し、研究の進展というとあまり進んでいない。数年後に論文ができればと考えている。今日は先生方に聞いてもらったり、市民の方にも聞いてもらったりするので、今なお残る問題も孕んでいるのかなと思い、色々なご意見などを賜れればと思っている。クラッシックなレジュメを配布させていただいた。前橋市における2つの「戦災復興」住宅建設を中心に、をお手元に置きながら、こちらを基にしながら、パワーポイントの方で話をさせていただきたい。当時の新聞などを使いながら当時の状況を皆さんにお伝え出来たらと思っている。

長らく私は経済史を研究していて、とりわけ財政の部分、受益者負担、ざっくり言うと誰がどの様にお金を負担したのか。特に社会基盤とか住宅建設に注目をして研究をしていた。卒業論文が、千葉県千葉市の戦災復興であった。戦災復興はどこか自分の中で、ずっと研究テーマとして残っているものである。今回もハイライトを言うと、今までの研究会の中では、戦時期の話が中心にあったのかと思うが、私は、空襲のあった後に注目している。戦災復興という言葉がよく使われるが、学部の時から思っていたが、市町村の果たす役割は何だろうか。県や国が果たす役割も勿論あるのだが、国の戦災復興計画に注目が集まってきた。一方で住民はどうなのか。そういった複層的な視点を持っていた。戦災復興が都市に与えた影響が大きいのは当然である。15年前に「千葉県の歴史」という書籍の刊行に携わっていた。千葉駅移転計画について、昭和38年に移転するのだが、発端は戦災復興計画からスタートしているが、出来上がったのは高度成長期まっただ中ということで、千葉市の人々は復興遅延に翻弄されていたというのが、「千葉県の歴史」を書いていた私の感想である。なぜそのようなことが起こったのか。これは千葉市の事例ではあるが、主体が国鉄であったことから、どうしても戦災復興計画が市民の目線というか、県民の目線でなかなか進みにくかった。これは国鉄のせいだと言っているのでない。主体がずれていることから、どうしても市民の目線からずれてしまった。結果としてどうなったのか。これも千葉市の事例だが、駅が移転するまでに18年もかかったことから既に人々の復興は終わっていて、駅が移転してことにより中心市街地がずれていく。国鉄の意向によって18年後に移ったもので、結局市民たちの生活の根底が崩れてしまう高度成長期まっただ中に起こっていた。

皆さんが戦災復興計画に対して、どの様なイメージを持たれているかお聞きはしていないのでこのように言うのは僭越ではあるが、一般的に理解されているのは、国が行う戦災復興計画で、どうしても研究というレベルで言うと市民たちの復興、1945年8月5日以降の話というのは、前橋市でどのくらい語られていたのだろうか。「戦災と復興」という大著があって、こちらは素晴らしい出来で、これを読めばすべて分かる、と考えられるのだが、それを一歩深掘りして、素晴らしい刊本がありながら、どういったことが言えるのかというのが、今回の私の研究のテーマだった。資料の表1を見ながら話しを聞いていただければと思う。東京市政調査会が発行した日本都市年鑑に掲載された戦災都市の一覧を掲載している。こちら、被災率というのを私のほうで出していて、被災した住宅と総戸数を比べて、どの位被災したのか。前橋市は70%被災しているのではないか、というふうに出している。恐らく全国的に見ても高い。前橋市はこれまでにも報告があって、私が言う必要がないのかもしれないが、大きく被災をした市と言えると思う。市街地と言われるほぼ全域が、罹災をしている。ここからどう復興するのか、重要になってくる。前橋市はかなり珍しくて、反対運動が展開されている。戦災復興計画に反対運動が組織的というレベルで起こるのも2件である。何故反対運動が展開されたのか。先取りをしてしまうと、住民たちとの考えにずれがあったから、この様なことが起きた。何故そのようなずれが起きたのか、検討するべきではないか。群馬県立文書館、前橋市議会事務局の議会関係資料を今回使用している。今回の報告にあたって、全面に出す資料は、基本的には上毛新聞を使っている。まず戦災の概要を説明するが、1945年の8月5日。罹災戸数11,460戸、罹災人口60,738人と記録がある。当時の上毛新聞はこの様な形で、今画面を見ている方は上毛新聞を見てもらっている。画面を見ることができない方は想像して聞いていただければと思う。昭和20年8月7日の記事に、「一昨夜にB29約60機、前橋市を爆撃」このような報道があった。注目すべき点とすると、8月13日の記事にこういったものがでている。「焦土に建築楽しい我が家」終戦の2日前だが、「決戦型の住宅、緊急疎開、2種類の登場」というものも出ている。まだまだ戦争を続ける意図を持ちながら、しかし住宅を建造しなければいけない、というのは喫緊の課題として県も市も考えていた、ということは分かってもらえるのではないかと思う。8月15日にでている記事、これは終戦の日なのだが、この翌日終戦の記事がでる「本建築許可まで借地権は冬眠」本建築許可というのはこの後の一つのキーワードになっていくが、本建築か、仮建築かということで、本建築の許可は直ぐにはでない、というのが戦時中であっても言われている。これが長らく続くわけである。8月16日で終戦の記事がでて、8月22日に「立ち上がれ戦災都市、田園都市の建設6000戸を新築。復興調査会に期待」という記事がでた。復興調査会は国の会ではない。市長を会長とし、市会議員と町内会長(区長)を委員とした独自の組織になる。この後この点について説明するが、前橋市の戦災をうけた惨状というのが、いくつも記事で報道される。例えば昭和20年9月20日「心ひとつに溶け込む屋外の隣組共同風呂」これは皆さんで入られる共同風呂を作られて、屋根のない状況ではいられている状況が書かれている。その下には「豪奢な雨漏り」という記事が載っていて、色々な方のインタビュー記事が載っている。戦災を受けた人達は戦災を受けた直後から住む家がない。もちろん疎開をする方もいるが、前橋市の中心市街地に残ってこういった生活をされている方も多くいる、というのが痛切に感じられる記事ではないかと思う。もちろんこれは手をこまねいているわけではない。前橋市、群馬県もいかにこういった戦災を受けた人達に住宅を作って住んでもらう、ということを考えるわけである。8月25日の調査会第1回においては、住宅の復興と焼失跡地の菜園化が考えられる。食と住というのが重要であるということが語られている。前橋市もお金が潤沢にあったわけてはない。今画面で見ていただいているとおり8月19日に「限られた資材の効率的な配分」というのが県から通達されている。それに従って戦災者住宅建設要綱が決定され、建設戸数が8,300戸うち7,500戸は前橋市が建設、800戸は住宅営団によるものとされる。建設費における負担というのが明記されている。私も最初にこれを読んだ時は千葉市でもあまり見なかった資料なので、「戦災と復興」にこれが書かれているのが大変興味深く拝見した。必要とされる資材や労働力によって差がつけられ、古トタンを利用して労務を必要とする者が一戸760円、杉皮またはタンパンぶき(現在でいうベニヤ板)で労務を必要とするものが850円、自力建設で木材及び釘のみの配給を受けるものが533円、木材杉皮及び釘の配給をうけるものが654円というような通達があった。考えてみればそうなのかもしれないが、戦災者とはいえ、ただで家を作ってくれるわけではなく、そして自分達で、労働力を捻出して作ることが出来るか、という基準の基に費用負担も変わってきた。ここに私の研究テーマである費用負担というので、大変興味を持たせてもらった。実際の記事がこちらである。「約1千円で完成前橋戦災者住宅のお値段」極度のインフレにあるとはいえ、戦災を受けた人達に千円を払えというのは簡単な話ではなかった、というのは想像してもらえるかなと思う。あまりに酷な記事であったと思う。9月29日の上毛新聞、これには戦災市民の出費をよくよく低減させようというつもりでこういった指示が出ていた。この建設に係る話だが、あくまでこちらは仮建築物とする、ということが言われている。これは仮建築物なので、戦時期のところでも見てもらったが、本建築ではないので県、国、市の意向によっては立ち退きも含む条件付きの仮建築物である、ということが言われている。勿論だが、戦災者の人達は住む家がなければならない。多くの人が建てたであろうことは想像に易いと思う。この後新聞とか報道を見て少しお話しをさせてもらいたい。戦時期同様にこの部分は変わらない。仮建築物として作って下さい、ということは敗戦直後から言われているということを確認してもらえればと思う。実際の記事がこちらである。「どうなる戦災地土地問題」。こちらは、地主と借地の問題がすこし拗れているということを報道するものである。見出しが、「仮建築なら優先」。本建築とする場合は恐らく都市計画、戦災復興計画まだ設立されていないが、そういった市や県、国の計画がこの後でてくることが予定されていたのではないかと推察される。地主と交渉するなかで、そして仮建築でなければいけない、ということが市民の人達に提示されていた、ということがこの記事からも分かっていただけると思う。それ以外にもこの様な記事がでている。「建築物に許可制6坪以上は署長と知事へ」こういった許可制、許可を得ないと6坪以上の建物を作ってはいけない、というものがでている。こちら1番のところかなり細かい文字なので、ちょっと見ていただくのは難しいと思い、レジュメのほうに書かせていただいた。1945年9月29日の上毛新聞、建築許可についての詳細という部分である。

1、市内戦災地に建設する建物は、何れも仮建築物とす 2、市及住宅営団に申し込みたる(六坪二合■…判読不明、引用者)住宅は、其の申込書を持って建築届と看做す 3、十五坪以下の住宅其のほかを建築する場合は、警察署長当てに将来計画上移転撤去等の命令ありたる場合はこれに応ずる旨の請書(建築届書)に付近の道路敷地の見取り図建物略図を添へ届け出ること(掘っ立て小屋はこの限りにあらず) 4、十五坪(二階坪を合わせ)を超ゆる場合にありては、従来通り工作物建築許可申請を警察署を経由して知事あて提出し許可を得るものとす、

このような話がなされているわけである。日付1945年9月29日、前橋市の戦災が8月5日なので、およそ2か月経って色々な工作物が建ち始めた時期であっただろう、と推察出来る時期である。その時期にその様な通達がなされている。これはどの様に市民の人達が受け止めたのか、当時この近くに住まわれていた方に話を聞いたことがあるが、何せ混乱期だったので、ここまで詳しい話は分からない、とおっしゃる方がいらっしゃった。実際この通達がどの程度の効果があったのか計り知れないところがあるのだが、前橋市戦災復興における自力建設の展開というのはどの様な意義を持っていたのか、というふうに考えると、中々自力建設は限界があったのではないかと考えている。今見ていただいている記事、9月5日「着工済み急速な再興の槌音」秋もたけなわ、建設の槌音、戦災2か月ということで、先程どの位経ったのか、私はデータとしては難しいと書いたのだけれども、例えば下の記事を見ていただくと、「熱意が足りずまだ一戸も建たぬ」これは高崎の話である。中々の混乱期だったので、どの様に建てるか、どの位建っているのか、把握するのも中々難しい状態であったのかな、と思う。「土地問題は隣人愛で解決へ」と書いてある。どの位解決したのか分からない。そしてすこし時期は飛ぶが、戦災5か月目1946年1月11日の記事である。この時期になるとかなり戦災復興住宅という形ではなく、市民たちによる復興住宅や市の建設による住宅も建ち始めている頃である。こちらは、東京などはより顕著ではあったが、前橋においても戦災5か月目にしてもまだ保護生活をされている方がいる。前橋に59世帯いたという記事が載っている。話を聞くと親戚の方の納戸に住んでいたとか、狭い物置に住んでいたとか、他県の事例でも聞くことがある。決して住宅に恵まれた状態ではなかったかと思う。まだまだ住宅の建設が5か月経っても追いついてはいない状況であった。この時期の公営住宅の建設状況を見てみると、このようになる。1946年からデータをとることができ、公営住宅供給数である。「戦災と復興」から抜粋をしている。私が少し打ち直しているので、形式が違う。1946年に既に国庫補助をもって150戸、前橋市で供給されていることが確認されている。どの月に何戸かというところまではこの表では示すことができないが、国庫補助で150戸、230戸、90戸という形で建設されている。これがすべてかと言うとそうではない。戦災者住宅というものも建設されている。こちらは法令住宅ではないので、入っていない。戦災者住宅は先程述べたとおり、要労務建築、労働力を必要とする建築で、費用を市民が負担するものであった。市営住宅と県営住宅が後手に回ってしまっていることが分かるかと思うが、この時期群馬県も前橋市も財政状況かなり厳しい。国も厳しい状況にあるが、県であったり、国であったり、市であったりそして市民の方であったりというのが、混乱期の中でいかに住宅を建設していくか。しかしその費用負担という点では前者がより厳しい状況で進んでいたということが分かってもらえたと思う。こちらは、表3の前橋市における建物数変遷である。こちらは新しく建てた建物ではなくて、「戦災と復興」に載っている、建物数、建っている建物がどのくらいあるか、の変遷を見たものである。1945年12月まず住家が急激に増えているのが分かるかと思う。特に1945年12月から1946年12月までだいたい4500戸位増えているのが分かってもらえればと思う。国庫補助の住宅が150戸であるので、どれだけ市民の方々の努力で、市の方や県の方の努力によって、大半が自助努力で建てたのだということが分かってもらえればと思う。それ以外にも店舗や工場、倉庫、雑種家屋も復興していることが分かる。ただとりわけ1945年12月から1946年12月にかけての住宅の復興は目覚しい。こちらはそれだけ前橋市の戦災というのが大きな被害があったからということの証左という風に言えることかもしれない。そこまでこのデータが信頼できるか、というのも要検証となるが、私はこの数年間他にデータがないか、裏をとることができないか、色々と調べてはみているが、中々この時期のデータをとることは難しい。前橋市の方に無理を言って色々倉庫の中を調べていただいたのだが、当該資料はない、とのことで、「戦災と復興」に掲載されている資料もこちらも刊行されてから60年経っているので、もう書庫にない、とのことであった。自力建設1,521戸、要労務建設3,674戸。建設が終わったのが、要労務建設で3,530戸、自力建設381戸ということがデータとしてとることができる。要労務建設、お金を払って建ててもらうものはその大半が建ててもらえたが、材料を貰って自力で建設するという申請をした方々にはその条件が厳しかったようで、そのほとんどが2割程度しか建設が出来ていなかったと後世に伝えられている。1945年の冬、越冬応急住宅が建てられると宣言がなされたが、1945年当時戦災復興への事務化を推し進めていた百田正弘がこの様に述懐している。計画的に、国の計画である、30万戸造るというのは無理であった、と正直に述べている。その後彼が言っているのは、やり方としては資材で売るのと建てたものを売るのと二つの方法を取った。切り組んだ資材を個人に斡旋するのが一番多く、先程の自力建設もそうである。それからどうしても駄目なのには賃貸する、普通の人では木材も何も手に入らない、と述懐している。前橋市においては終戦直後に自力建設が進まない中で市による住宅建設、市による住宅供給が、要労務建設が補填していた。これは覚えている方がいらっしゃって、木材の配給を受けてうちはあれを作ったのだよ、と言っていた。実際そういうことが行われていたのだと思う。先程から言っているように仮建築というのが罹災者には突き付けられた現実であった。尚且つ当時考えなければならないのは、GHQの存在である。今私も教鞭を執っているので、学生たちもそういった時に、日本は占領されていたのだからGHQは何かしなかったのか、とかむしろ何か邪魔しなかったのか、と言う学生もいる。こちらは資料の詳細が分からないのが、正直なところではあるが、千葉県でもそうではあったのだが、ほとんど関与はしていない。戦災者に対する戦災復興計画に対して関与していない。ララ物資とか先生方がご存じのとおり支援物資とかは来るのだが、住宅に関しては恐ろしいほど無関係。逆に前橋市議会資料を見ると、GHQの人向けの住宅を作らなければいけなくて、その費用がかなり大きかった。正直その費用さえあれば仮住宅がどれくらい作れるだろうかというくらいの費用負担というのを任ぜられている、ということがあった。

小括で、1つ目、2つ目の戦災復興、2つの戦災復興と私は立ち上げたが、実質今回皆さんに提示したいのは2つのうちの1つというのは、市民の戦災復興というのをいかに我々は見てきたのか、厳しい状況ということを皆さんに伝えられれば、と思う。恐らく皆さんはもう簡単な復興だったとは考えていないと思う。こういった研究は歴史学に属しているが、まだまだ少ないと思う。私は都市計画史もやっているが、どうしても戦災復興計画、国の計画の方に視点が行きがちであるが、1945年8月5日から続く戦災復興というのをどの様なものだったのか、この様な研究が研究者の手によって進めるべきではないかと思う。今回の前橋市の事例では、自力建設の困難さ、しかしそういった中で、すべてが混乱している中で、一定の費用負担を免れない中で市民の方達は必死に戦災復興の中を生きていた、ということを伝えられればと思う。こちらが1つ目の戦災復興ということになる。

こちらが話せれば私としては本望なのだが、では2つ目の戦災復興はどの様なものなのかというと、こちらがステレオタイプな都市計画ということになる。レジュメで言うと3頁からあと1頁になる。こちらは駆け足でいけるような内容であるが、そう言うと大変失礼であるかもしれないが、我々のように都市計画史をやっている人間からするとよく見られる議論ということではあるのだが、1946年10月9日、特別都市計画法のもとで戦災復興計画を行う115都市が内閣より告示され、前橋市も指定。特別都市計画法は聞きなれないかと思うが、都市計画法と何が違うかと言うと、大きなアクシデントの時に発動される特別な都市計画法で、これ以前にどこで適用されたと言うと、関東大震災の時に東京と横浜に適用されている。そちらから準用されるという形で、戦災に適用される形で、1946年10月9日に前橋市が適用されている。特別都市計画法のもとで行われる事業の大半は群馬県が行っているので、前橋市の資料の残存状況で言うとかなり限定的で、こちらは群馬県立文書館のほうに大半資料が残されている。前橋市が担ったのは上下水道事業のみと資料上見ている。さて、ではこちらがどのような計画だったのか、というふうに逐一見ていくことはしないが、1つ目の戦災復興にどのようなに関連していくか、ということを見ていければと思っている。上毛新聞は都市計画の色々な記事を載せている。その中で、私が1つ目の戦災復興に関連する様な記事を恣意的に抜粋するとこの様になると、ご理解いただければと思う。1945年10月25日、特別都市計画法がでる前、「寝耳に水の杭打ち」ということで、乱暴な都市計画化、およそ群馬県のほうに戦災復興計画の素案が出来始めると、先程の仮建築というものが現実味を帯びてくるが、1945年10月25日なので、まだまだ市民の方は実際に行われることを考えていないと思う。この点を市民の方に話を聞いたら、お上のやることだから、と半ば諦めたように言った方がいたが、1946年10月7日には、104万坪にわたる土地区画整理事業計画が行われることが発表され、1946年11月26日に群馬県告示として出された「前橋戦災復興都市計画区域」というのが設定された。ここに設定された区域には、今もそうだが、その都市計画にあわない建築が出来なくなる、規制がかかる。戦災を受けてから1年後に市民の方達に告げられる。1946年4月の記事「構想は美しいが現実無視に市民不満」とか、1946年10月2日に「放射線街路をゆく20万人口の構想」といった記事が載った。1946年10月2日、区画整理の案が出るような時期、ある種美しい前橋市の姿が市民の方にも報道でも提示される。こちらは写真ではなく絵図である。恐らく市役所等で、実際に公開された絵であると思われる。こちらは新聞報道で接写をしてだされたのではないかと思う。1947年2月17日このような図が提示された。画面を見ていただいている方は、画面の下側に前橋の駅があり、それを進んだ方に今元気プラザがある。今歩道橋がかかっているが、恐らくその辺を描いたものだろうと理解している。駅前ロータリーが拡充工事される前の前橋駅を想定しているので、サイズ感が違うが、このような綺麗な前橋市にしたいというものが提示されている。その一方で戦災住宅の復興について表1に復興率を出してあるが、戦災住宅の復興は実は前橋市は早かったようである。早かったというのをどう捉えてよいのか、なかなか難しい。なぜかと言うと、戦災復興は早ければ早いほどこの2つ目の戦災復興にしたがって移転をしなければならない人達も増えた。1946年12月17日に、「全市の半分は移動、補償はほんの涙金」雀の涙しか出なかったという記事がでた。こちらは前橋市のフォローをするわけではないが、千葉市でも聞き取りをした際に似たような話が聞けた。これの理由はハイパーインフレで、十分なお金だと思って払ったとしても、1年後にはその価値というのがかなり減じてしまう状況である。なので、土地の所有者からしてみれば、かなり不満の残る状況であった。ただ前橋市で聞き取りをした際にはその様な声は聞こえなかった。この様な状況が突き付けられる。1946年12月の記事であるので、戦災を受けて1年後にこの様な状況下にあった、と考えてほしい。そして、何故反対運動が起こったのか、という事に繋がっていくのだが、こういった戦災復興計画が市民の方々の意見が入る余地がどれだけあったのか、という事は今では伺い知ることができない。新聞報道や戦災復興などを見ると中々戦災者の意見というものが反映される機会というのは無かったのではないかと思う。こちらが1つ目の戦災復興になる。2つ目の戦災復興は、悪いと言う気はなくて、かなり恣意的に取り上げた。今回皆さんにお伝えしたかったのは1つ目の戦災復興の上に2つ目の戦災復興があったことから、この年月のギャップ、生きなければならない1年間、2年間そういった中で、作ったものが戦災復興という言葉である種、覆されていった実体があった。どれだけ我々が受け止められているか。これはプラスアルファの部分で、この部分で進化しなかったもので論文化がされていなくて、学会誌に投稿とまでいっていない。私の不勉強だが、表4をレジュメの最後の方に載せている。これは前橋市の町ごとの人口動態が載っている前橋市の統計書があり、それから私が抜き出して書いたものである。前橋市街地の中心1942年から1947年までの変化を見てみると地区の中心市街地の落ち込みが激しいことが分かる。被災者を十分収容できる住宅が建設されていなかったのか、市民の人達が自分達の意図で郊外に出た、というのは勿論であるが、ここは要検討であろうと思う。もし帰りたいのに帰れなかったのであれば、自力建設の限界を示しているのではないだろうか、と私達は考えている。前橋市の人口の減りが激しいのは、前橋駅南にある戦災地区である。今は稼働していないが、六供のプールがあるあたりは人口が増えている。公営住宅が作られているのもあるが、前橋市の郊外化が進んでいたのではないかと思う。人口動態をみた限りではそういったことが言えると考えている。

最後にまとめになるが、土地台帳を使って、どの様に土地の所有者が動いたか、ということを他で研究している。まだ皆さんの前に出せる部分ではなくて、報告の中には載せていないが、土地の移動というのは、実はそんなにない。7割の方は土地所有という点では所有し続けられている。戦災復興という中で、3割の方が移転してその方は土地の売却益がまだあったかもしれないが、7割の方は、単純に1回住宅を作ったものをもう1回作り直しているであろうと推察できる。その困難たるやいくばくか、というふうに考えている。詳しくは言っていないのだが、戦災復興計画、土地区画整理の中で、減歩と言われる土地の無償提供とは言ってはいけないが、土地の所有者からすれば、無償で市の道路とか、用地にするための土地を提供している行為もあった。そのような負担も費用負担でないが、実質費用負担であった。そう考えると敗戦直後から区画整理に至るまで住宅に関しては、罹災者の皆さんは、繰り返しの費用負担を余儀なくされていたのではないかと思う。こちらは、繰り返しになるが、前橋市や群馬県のせいというふうには、考えていない。すべての主体が混乱していく中でそういった法の難しさというのを我々に今もなお突き付けているのではないかと思う。それは記憶に新しい東日本大震災も、私は西日本にきて痛切に感じたが、西日本豪雨の復興というのは何か、中越地震の復興とはなにか、阪神淡路大震災の復興とはなにか、どうしても復興計画に集中して、人の復興、生活の復興というのが見落とされているのではないかと、歴史家として痛切に考えさせられたという研究テーマであったと考えている。

 

【質疑応答】

岩根委員

大変貴重なご研究、敬意を表したいと思う。私は「戦災と復興」の中で、戦災復興計画の反対運動が起こったのは、少し驚き、ああそういうことがあったのか、公聴会とか、座談会の様子が「戦災と復興」に載っていて、その中で当時の関口市長が自分個人として、復興事業は大反対である、市長自らが大反対である、なお特別都市計画法も悪法であると思う、そういう発言を公聴会の中でしている。戦災と復興が決して一直線ではないという主張そのものもそういう立場をとっていかざるをえなかった。そういうことが、先生の話を聞きながら当時の戦後の復興を巡ってある意味で市民の間の意見の対立みたいなものが生まれていた。そういう側面からもう一回復興を考えてみる必要があるのかな、と思った。その辺について、先生はいかがでしょうか。

小林先生

「戦災と復興」を読んでみたが、本当にある種の自由な議論が許されたというか、現在ではあまり考えられないような記事も載せられていたと思う。反対運動を先導されていた方も恐らく座談会に参加されていたのではないかと思う。議員さんで一人いらっしゃってその方が反対運動を主導されて、時期尚早であることも言っている。この辺ギャップというかそういった部分も完全に私としてはもっとあっていいというふうに思っている。千葉県ではほとんど事例を見ない。千葉県では他の事例を見ても、まあ従順にではないが、受け入れる市民の姿というのが、記録としては残されることが多い。むしろ「戦災と復興」に掲載されているような座談会や、市長の率直な意見というのは当時の世相、意見を反映したものなのかなと思う。そういう意味でも大変貴重な記録集を残してもらったのかなと思う。

吉良委員

先生のご専門ではないが、今日のお話しをうかがって、ヨーロッパのドイツ、イタリアの復興政策に対してアメリカがどのように対応していったのかという事を含めて、明確な違いがあるのか、そこがとても興味があって、アメリカがヨーロッパに対してと日本に対してと同じだったのかそうではないのか、もしそうではないのならば何故に、感想でもよいので教えていただきたい。

小林先生

すぐ明確に答えられたらすごいいいのだが、私の理解している範疇で言うと、直接統治と間接統治があって、GHQは間接統治という形をとっていて、国の政府も残っているし、地方自治体の権限もかなり残っている。この後国も傾斜生産方式を導入することアメリカに打診して認可もされていたりするので、独自性が残されているので、ドイツ、イタリアなどは、特にドイツは国全体とベルリンが分割されて街のあり方、国のあり方もコントロールされている中で、先程の報告で紹介させていただいたのだが、びっくりするくらい住宅に関してGHQは触れないので詳しく私も調べられたわけではないが、例えば、私は飯田市と千葉市や小田原市に関わっていて、そこの戦災復興計画は調べたのだか、飯田市でも最後の最後にやって来て、素晴らしいものができたね、と言って帰っていった。表現が正しいかは分からないが、戦災復興に関してはかなり県や国の独自性が許されているというのが違うのかなと思う。それがアメリカのやりたかったことなのか、どうかいうというのはアメリカの研究者の話を聞かないと分からないが、市民の方達が、反対できた余地が残されていて、敗戦国としては珍しい、世界的に見ても珍しいと思う。

吉良委員

恐らく、極東の政策とヨーロッパの政策はアメリカにとっても違うということの、何かどこかで繋がっていると思って感慨深く思う。

新井委員

大変興味深く聞かせていただいた。一点、先生の感触で結構なので、教えていただきたい。特に興味深く聞かせていただいたのは、反対運動があったという部分で、反対運動があったということ自体、驚いた部分もあるが、先生のお話しを聞かせていただく中で、反対運動が起こっても当たり前だという、当然起こる可能性は十分ある、主権の制限に関わるような話になっているので、当然かなと思う。全国的にはいわき市と前橋市の二つだけ、この全体の流れを考えるともう少しあってもよかったような印象を感じるが先生はその辺についてはどの様にお考えでしょうか。

小林先生

先程言いましたが、本当にあってもいいと思う。数名の方しか聞き取りができていないが、前橋市の遊園地があるあたりに住在の方に話を聞いたとき、おっしゃっていたのは、お上の言う事に反対する風潮は、戦後間もなくだからない。私が何故反対運動が起きたのか、と質問しても、まず考えられなかったよね、と言っていて、お上が言ったら、はい、そうですね、と言うしかなかった。1946年、7年という独自性を我々は敗戦というドラスチックに色々ものが変わったと考えがちだが、当時、住在の方からしてみれば、敗戦があっても直ぐに考え方が変わるわけではない。敗戦という現実を受け止めても国からくるもの、県からくるものは従うものだと考えていた方も少なくなかったと思う。ではなぜ前橋市では立ち上がることができたのかということは、まだ私のほうでも分からないが、前橋市ではそういったことが噴出して、しかも反対した理由が時期尚早。今これをやる理由があるのか、やること自体に理解は示すが、今なのか、混乱している今やるべきなのか、という反対。実に理知的な批判の仕方をするな、と思っている。当時の独自性が反映されていたのかなと思う。40年早かったらこういう所を聞き取りするのだけれども、40年前、私は生まれたころで、難しいので、残念である。

手島委員長

先生の方に1つ目の戦後復興と2つ目と分けていただいて、1つ目は自力復興であるが、中々今の被災地を見ても自力では難しい中で、この戦後も姫路市長が音頭をとって、戦災復興連盟が出来て、100余りの市が国やGHQに働きかけて復興が行われていく。そういう中で、どうしても自分達の意向と、国とか、上からするものがずれてくる。そこで話し合いをしていくことになる。1、2となって、という様な先生の言い方も分かるが、ある面でもそれは仕方のないと思うがいかがでしょうか。

小林先生

まさに仕方のない部分を、今回の報告も、遅れてやってきた戦災復興計画というのがあるが、私は都市計画を専門にしているので、都市計画は乱開発を防いだり、衛生面を向上させたりする大変重要な技術ではあるので、行うということ自体はもちろん都市の成長にとっては、必要なことであると思う。強調したかったというのはどうしてもそこばかり集中するのは良くない。これは自分の反省点でもあるが、今回東日本大震災で私も高崎で21年を迎え、2重ローンの問題とか、家を建てたあと津波に流されて、またローンが残るが、また家を建てなくてはいけない。生きなければいけないから費用負担をしなければならない。これを目の当たりにしてテーマというか考えに至ったというか、発案の1つになり、そこのずれというか、必ずその計画には時間が必要で、その1年生きる間も家がなければいけない。今後も含めて我々は今生きる人間が過去から学べるとしたら、こういった震災があったりしたら、生きるためにどの様な政策がとれるか、ギャップがあるがどうしてか。この様な事例があったということが分かることが重要であるので今回の報告に使わせていただいた。仕方がないことをどう今生きる我々が受け止めるかが重要だという事を伝えられたらと思う。

手島委員長

もう1つ私が聞いているのは、研究はしていないが、先生が先程言った、綺麗な都市計画が示された、それは丹下健三の設計した計画であった。それに対して当時の前橋市は負担も含めて実体に合わない。時期尚早ということで、それが没になって、今のようなものになった、と聞いている。反対したのも、遠藤可満を中心にした議員たちが行った、と理解している。それが今70年経ってみて、丹下健三の計画が良かったのではないかというような評価もできる。例えば、愛知県の豊橋は、私も行ったが、路面電車を残す為に家を曳いて、道路を大きくして残した。前橋は路面電車が邪魔ということで、撤退することになった。どの部分で、評価をするか、なかなか難しい。もう1つは、戦前の前橋の大きな課題というのは、前橋は日本でも最も人口密度の高い都市であった。昭和の頃から都市計画が何度も議題に上がって、特に昭和になって、私の住んでいるあたりの上川淵や総社も含めて、都市計画が出来て、周辺の村々の賛同を得て、進めようしたが、戦争が深まって、出来なかった。むしろ戦災を1つのきっかけにして、長年の課題であったものが長期的にみると、勿論人民の大変さもあるが、長い目で見ると、そういったことが行われていた、そういう側面も実はあるのではないか、と感じている。もう1点は、私は選挙の研究が専門なのだが、住宅に使う木材はどこから運んできたかということにとても関心があって、たまたま戦後の第1回参議院選挙に鈴木順平、利根郡の3大尽という山林地主の彼が無償で前橋に提供したという話があり、そのことが新聞の選挙時に候補者のプロフィールに載っているが、資料的に実証をしていないが、前橋の復興の材料等が本当に鈴木さんの所から出たのかどうか。そういうことがあって彼は選挙に当選する。住宅の材木とか用材は当時どの様なところから調達をしているのだろうか。

小林先生

3点ご質問をいただいたと理解している。まず、丹下健三の案で良かったのではないかと言われれば、今を生きる我々からしてみれば、そうであると思う。私はもっと言えば、再開発の前のほうが良かったのではないかと、あまりいえないが。あちらの駅舎のほうが、味わいがあった。これは歴史をやっていると価値観は変化をしていくものなので当時を生きた人達の判断は尊重せざるを得ない。それがもし今を生きる我々がおかしいと思うのであれば、そこから学んだことを活かせて適切な判断をする糧とすべきであると思う。また似たような理由で、千葉県庁舎がもともとゴシック建築だったが壊してしまった。維持ができないと。日本全国を見れば、維持している都道府県はいっぱいある。あれはただ壊したかっただけなのかなと思う。全国的に難しい問題だと思う。2点目の長年の問題を解決するきっかけになった。不幸中の、という話になるかと思う。これもよく言われる話だが、東京都に関しては、戦災復興では何もしていない。戦災復旧だ、と言われている。元に戻しただけだ、と言われている。では、東京は何もしていないのかというと、関東大震災の時にこうしているからこの時に素地が作られている。2つ目も都市改造はオリンピックの時に行われている。だから、何がタイミングになるかわからないが、前橋市も長年の都市問題を解決する、群馬県全体の都市計画法が適用されてから、ほとんど事業は行われていないので、これも珍しい話ではない。千葉県もほとんど何もしていない。何も出来ていないなかで、戦災というのが一つのきっかけになったというのは確かにそのとおりではないかと思う。3点目のどこから木材がというのは、「戦災と復興」に一部載っている。どの地域からどのくらい来たか、ということが載っているが、誰からというのは私も見た事がない。前橋市の文書館の資料でもそこまで詳しい資料がなくて、そこまで詳しい資料があれば、私も嬉しいが、実はそれは一周回って戦災復興ではなく、関東大震災の資料のほうが面白いものが見つかっていて、戦災復興のほうはそこまで詳しいものが見つからない。ただ県内からの調達であろうということは言えると思う。申し訳ないがこの程度でご容赦いただければと思う。

 

【講師】2.栗田 尚弥(國學院大學講師)

資料2に基づき講義

栗田先生

8月5日の防空戦ということで報告させていただく。実はこの話をいただいた時最初はアメリカ軍の資料を使って色々報告させていただこうと思ったが、工藤先生や第一線の先生方がその米軍資料を使ってかなり詳しいご報告をされているので、これは重複してもと思い、では守るほうはどう守ったのかという視点からお話したいと思う。

はじめに1945年8月5日、前橋市は、米陸軍航空軍第313爆撃団の空襲にさらされた。この空襲に対し、日本軍はどのように対応したのかということについて報告させていただきたい。

この前橋防空戦について話す前に当時関東地方の防空体制が如何なるものであったのか少し話をさせていただきたい。皆さん大体想像がつくと思うが昭和19年、1944年になるとどう考えても戦局は日本にとって不利である。日本近海にもアメリカ空母部隊が進出してくるのではないかと。実際1942年のドゥリトル部隊の東京空襲は日本近海にきた空母ホーネットから爆撃機が発進しているということがあるので、戦局が悪化する中で、アメリカの空母機動部隊が進出するのではないか、これに備えなければならない。そういうことで、軍機構の改変が行われた。1944年5月、東部、中部、西部の各軍を新たに作られた、少し前に作られた防衛総司令部、トップは防衛総司令官。この隷下に入り、また第1航空軍という航空部隊がこの司令官の指揮下に入る。軍事の専門用語で少し分からないという方もいるかと思うが、隷下というのは簡単に言うと本籍地である。指揮下というのは例えば群馬県庁の方が国土交通省に行った時に、国土交通省の課長さんなり、部長さんなりに指揮を受けるということである。出向先で指揮を受ける、と考えていただければと思う。防衛総司令官のもとで東部、中部、西部の各軍が作られ、また第1航空軍がこの防衛総司令官の隷下に入る。これより少し前に飛行部隊の大幅な改編が行われ、関東地方に関しては、3月8日に、当時の言葉で言うなら帝都防衛のため、第17飛行団が第10飛行師団に改変された。第10飛行師団というのは、当時の方の話を聞くと、皇居直隷である。要するに皇居を直接守ることを目的とした部隊である。言ってみれば空の近衛師団である。この第10飛行師団が前橋防空の中心になる部隊である。2か月後の1944年7月に大本営は本格的に防空体制を整備する。本土防空作戦を含む、今までの作戦に更に本土防空作戦を重視した、捷号作戦というものの準備に入る。捷号作戦準備に関する命令を下達する。これにともない、高射砲部隊の再配置が行われ、横須賀-湘南地域-立川-大宮-柏-千葉を結ぶラインに東部高射砲集団、これは後に高射砲第1師団となるが、この隷下部隊が配置される。翌年、東京防空要塞とも言われているが、高射砲集団が整備されていく。このラインから分かるように群馬県は少しこのラインから外れている。まさに帝都防衛のための防衛ラインである。また、関東各地に飛行場増設。これは増設の飛行機はなくて、例えば、帝都防衛で戦った飛行機が臨時に飛行場に着陸するとか、そういうための臨時の飛行場が増設されて、群馬県にも飛行場が増設されていく。今の話を図で示すとこの様になる。防衛総司令官のもとに東部、中部、西部、西部は中国、九州である。そういった軍が作られていて、少し遅れて北海道の北部軍がつくられる。このもとに3つの軍と第1航空軍がこの防衛総司令官の指揮下に入る。そのもとに第1航空軍に第10飛行師団というのが作られて、そこに示したような部隊が隷下、あるいは指揮下に入る。ここで少し注目していただきたいのは、所沢にある第53という戦隊である。これは後に千葉県の松戸飛行場に移る。現在、陸上自衛隊の松戸駐屯地である。それから更に終戦間際、千葉県の藤ヶ谷飛行場、柏市と鎌ヶ谷にまたがっている飛行場で、現在の海上自衛隊の航空基地になっている。実はこの第53戦隊というのが前橋上空の空戦に参加する。この第10飛行師団というのは第1航空軍の隷下にあって、本籍は第1航空軍だが、航空指揮は東部軍から受ける。これが大体1944年の防空体制である。先程言ったように統帥機構が5月に改編される。実は6月にもマリアナ沖海戦で日本の機動部隊はかなり壊滅的な打撃を受けて太平洋上における制海権、制空権は、日本は喪失している。間もなくサイパン島も玉砕する。1944年段階からますます戦局は日本にとって不利になる。翌45年になると、関東上空にもB29が登場している。流石にこれは本土決戦しかない、ということで、本土決戦が一つの合言葉のようになっている状況である。そういったなか1945年4月、鈴木貫太郎内閣は「決号作戦準備要綱」発令。天皇直属の第1、第2総軍、航空総軍を新設する。そういった本土決戦に備えて準備をする。更に6月にはその防空を意識した「制号作戦」も発令される。「制号作戦」とは、要するに指揮命令系統を一元化していくことである。従来の防空任務に加え、本土決戦に備えて防空準備をしろと、2つの方向の準備を「決号作戦準備をあわせ実施」という作戦命令であった。制一号と制二号という作戦からなっていたようである。「決号作戦準備をあわせ実施」というのは、「第10飛行師団制号作戦計画」というところにこういった文章がでている。こういった準備ができるなか飛行師団よりも下の部隊であるが1945年7月に第20戦闘飛行集団が編制される。これも少し前橋防空戦と関係のある部隊である。今言ったことを図で示すとこのようになる。天皇のもとに第1総軍があり、そのもとに第12方面軍、これは関東の防衛を担当すると言っているが、先程東部軍を使ったが、あまり内部でも第12方面軍という言葉は使わない。一般的には東部軍と言っていた。これは映画でもあった「日本のいちばん長い日」で、レコード盤奪取クーデター計画の中心になった部隊で、この東部軍の参謀がかなり積極的に動くという事件があった。この第12方面軍のもとに先程言った第1高射砲師団というのが配置されて、このもとに関東各地に高射砲部隊が配置される。航空総軍のもとに第1空軍が東京に司令部をおくが、そのもとに第10飛行師団、その他の部隊が関東の防衛、東京の防衛に従事する。第5とか、第12とか、第26飛行団と書いたが、実質的に指揮は、第10飛行師団からとっていたようである。高萩という名前がでてくるが、これは茨城県ではなくて、埼玉県の高萩村である。これは当時の航空部隊にいた方が書かれた「B29対陸軍戦闘機隊」この名前は少し名前がマニアックなのだが、当時の戦闘隊にいた方々の回想録、書類をまとめた資料で、内容的にはマニアックなものではなく、かなり資料として使える本である。その中に山本茂男、この方はたしか第10飛行師団の参謀か何かをしていた方だが、その方が「制号作戦」における部隊配置図というのを載せている。簡単に言うとこの黒い点のあるところが、航空戦闘部隊が置かれていたところで、丸が予備飛行場となっていて、群馬県は新田と太田が予備飛行場になっている。太田は有名な中島飛行機の附属の飛行場、それが予備飛行場になっている。それから新田飛行場は太田市にあった飛行場で、新田には航空防衛部隊が置かれていなくて、呑竜とか重爆の部隊が置かれている。この当時は予備飛行場で、後に新田にも航空防衛部隊が置かれることになる。勿論これだけではなく群馬県には前橋飛行場や桐生の飛行場もあった。これらは予備というよりも臨時の着陸とかのために想定されていた。この表が終戦時防空戦闘部隊で、これは爆撃部隊とかを割愛して、戦闘機の部隊だけにしたが、この赤字で示した飛行第112戦隊というのは終戦間際に前橋防空戦に参加するが、前橋空襲の少し前に新田飛行場に編成される部隊である。上部団体が小牧の第20戦闘飛行集団、とか同じく第23飛行団で司令部が小牧にあったが、これは小牧のほうから司令していたわけではなく、実質的な司令はおそらく第10飛行団から受けていた。つまり隷下は第20戦闘飛行集団、とか第23飛行団であるが、実質的指揮は第10飛行団から受けていた。大体ここに書いてある部隊が前橋の空襲に備えて大体あがった部隊である。あがるというのはパイロット用語で上に飛んでいくということである。群馬県の防空体制はどの様であったかというと、高射砲部隊は先程言ったとおり、首都圏を守る高射砲軍の群れから外れていて、太田を中心に独立高射砲第4大隊これは先程言った高射第1師団麾下である。本部は太田である。第1中隊は太田、第2中隊は小泉、第3中隊は下小林、第4中隊は古戸(ふっと)に置かれた。それでどの様な大砲が置かれたかというと、第1中隊本部太田には3式12糎高射砲を6門、小泉以下は99式8糎砲を各6門置かれていて、全部で24門の高射砲が配置されていた。これがそれぞれの高射砲の性能だが、88式7糎これは太田には置いていなかった。これは非常に古い。実は終戦時の日本の高射砲の半分は、昭和3年製のものである。次に古いのは、1941年に開戦の年に正式に採用になったものである。太田に置かれていた当時としては最新式のものがあり、3式12糎、43年に正式採用になっているものである。大体性能は、表で示したとおりだが、段々新しくなるに従って口径、内口径というのは狭い意味での大砲の大きさである。それから、銃の場合と大砲の場合は言い方が違って、銃で45口径というのは内口径のことで、大砲でいう口径は砲身の長さが内口径に対して何倍あるかということである。新しくなるにしたがって、長くなってくる。長くなると命中率もあがる。初速も3式12糎というのは非常に速い。最大射高、高さは少し99式よりも落ちる。カタログデータ上ではB29を迎撃できる高さになっている。実は88式7糎であるが、実は私は20年ほど前に当時千葉県で展開していた高射砲部隊の中隊長がご存命で話を聞いたのだが、それが88式7糎であった。とにかくひどいものであったと。B29が飛んできた時に、照準を合わせようと思っているうちにB29があっちに飛んでいってしまった。因みに1928年ではスピードの速い戦闘機でも最高速度が300キロであり、B29の最高速度が580キロ弱ぐらいでるので、照準を合わせていると間に合わない。ほとんど88式7糎は役に立たない。99式8糎にしても1941年の段階で、零戦の初期型でも速度が530キロぐらいで、それから4年後にはB29のスピードが零戦を上回っている。なかなかこれでもB29を捉えるのは難しい。3式12糎は当時としては日本の技術最先端で、前2者とは違って、例えば、大砲の弾をいれるのも自動装填、照準器も電気式照準器を使っているので、前2者よりも照準は多分確かであろう。それから大砲の信管、よく誤解されている方もいるかと思うが高射砲の場合は、直接機体を撃つのではなくて、高射砲の場合は、飛行機の飛んでくるルートを想定して、その前に爆発させて、3千メートルくらいでくるな、ということで、その前で爆発させて空中で破裂した破片でもって飛行機を落とす。これは他の大砲と少し違う。信管のセット、つまりどの高さで爆発させるのか重要になってくる。3式12糎の場合は、大砲に弾を自動装填した段階でセットできる。非常に当時の日本としては、一応カタログデータ上優れた大砲であった。これが太田には配備されていた。ちなみにアメリカの場合は、非常に画期的な高射砲、というよりも高射砲弾が画期的で、いわゆるVT信管というもので、今言ったように飛行機が飛んできて、そこで炸裂させて破片でもって飛行機を撃墜するというような高射砲の原理なのだが、アメリカのVT信管というのは、要するにアメリカは物量にものをいわせて大砲の弾を撃ちまくる。すると、飛んで行った高射砲弾が日本軍の爆音をキャッチして勝手に爆発する。つまりVT信管というのは飛行機の爆音に反応するように作ってある。だからアメリカは物量にものを言わせて撃ちまくれば、勝手に日本軍機が突っ込み、爆発する。これによりマリアナ海戦で、かなり日本軍機が失われた。アメリカは画期的高射砲を開発していた。この高射砲が実際は如何なるものであったかはまた後ほど説明したい。それで、航空部隊のほうであるが、一応先程は予備飛行場となっているが、これらも本飛行場となり1945年7月18日に飛行第112戦隊が新田飛行場で編制着手され、22日編制完了した。元々は前橋飛行場にあったのだが、教導飛行師団第2教導飛行隊をもとに編制されている。飛行場は7月10日に空襲でかなりダメージを受けているので、結局新田のほうで編制されていく。航空機は、写真で示した、5式戦40機、4式戦「疾風」20機。疾風のほうから言うと、当時大東亜決戦機と言われて、なかなか優れた戦闘機で、当時使われた戦闘機のなかでは陸海軍のなかでも使われた戦闘機の中で最速である。エピソードがあるのだが、一応カタログデータ上の最高速度が624キロだったが、戦後アメリカ軍に接収されてアメリカ側の質の良いオクタン価の高い燃料を積んだところ700キロ近くのスピードが出た。このエピソード自体がすでに日米の差を物語っている。その上をいくのが5式戦という戦闘機で、これが単座戦闘機としては日本の最後に正式採用になった戦闘機だか、スピードは疾風に及ばないが、急降下能力と空中戦能力が優れていて、パイロットの度量が同じ場合にはアメリカの最優秀戦闘機と言われているT51ムスタングとも互角の戦いを演じた戦闘機である。いかんせん数が少なくて、終戦までにつくられた数は400機弱である。その10%が新田飛行場に配置されていた。当時の新鋭機はそろえているが。これはまた最後の所で説明したい。

これが当時の関東、そして群馬の防空体制であるが、具体的に8月5日の防空戦はどういったものであったか。これが、なかなか資料が見つからなくて、どうしようかと思った。アメリカ側は詳しいミッションレポートがあるが、日本側の防空戦に対してはどうだろうと思っていたら、いい資料があった。千葉市の陸上自衛隊下志津駐屯地にあり、その資料館に防空作戦記録(関東地区)というのがあった。なぜそれがあるのかというと、下志津駐屯地というのは、高射学校、要するに防空関係の自衛隊員を養成する学校であり、戦争中にはここに高射砲部隊が置かれていた。その当時の資料を集めたものやその後集めたものがそこに入っている。これは昭和25年付けで、復員局は記録を当時の記録を集めてまとめた資料である。防空作戦記録(関東地区)下志津駐屯地所蔵の中に戦闘機部隊の記録があった。その中に「第10飛行師団命令」があり、これをまとめたものがこの表である。少し細かいので最後に別紙で一枚加えた。これを見ていくと、日本側がどういった戦いをやったかというのがよく分かる。まずB29の進入ルートであるが、右のほうは、ミッションレポートに基づくアメリカのB29の飛行ルートである。日本側の記録を見ると、進入ルートはほぼ正確に把握している。本土に入ってから、八丈島南方から勝浦、土浦、下館そこから前橋・高崎というふうにこの日本側の記録にはあるので、米軍の飛行ルートは把握していたと言える。18時20分頃に大挙襲来の報あり、要するに6時20分頃米軍が来るのではないかというような情報が入ってきた、ということが記録には書かれている。それからずっと飛行ルートを追っているようで、八丈南方から千葉県方面に入って茨城県から群馬県に入ってくる、というようなことが記録されている。下の方に書いたが、一番に、小笠原父島の海軍レーダー(1号1型電波探信儀か)ではなかったかと言われている。これは実は第52戦隊の隊員の方が回想録を残されていて、「5日20時に小笠原父島の電波探知機が大型機北上の報を入れる」と言っている。8時頃すでに小笠原のレーダーは我が上空敵機通過中といった電報を防空司令部に打っているということが分かるだろうと思う。上空待機、B29は前橋空襲の時、高度4000から5000mだが、当時のプロペラ機でもって4000、5000m上空に上がっていくのはなかなか大変である。警戒警報が出た時に上空待機をして待ち受けるのだが、18時20分には「各隊は20時迄に警戒戦備」いつでも出撃出来るようにしておけ、というような命令を受けている。21時13分に「各飛行隊非常戦備」要するに出撃用意。当時はまだ前橋まで行くのかどうかはっきりしていなかったが、21時19分にまず一番にあがるのが、飛行第112戦隊(新田)4機、大宮上空に待機する。その1分後に飛行第51戦隊(茨城県下館)4機、岩槻上空に出動。飛行第53戦隊(柏市と鎌ヶ谷市の間にある藤ヶ谷)4機、江戸川河口上空に出動。飛行第70戦隊(松戸)4機、川口上空に出動。飛行第23戦隊(印旛)2機、草加上空に出動。以後、第1(高萩)、第11(高萩)、第18(松戸)、第23、第51、第52(調布)、第53、第70、第112の各飛行戦隊が上空待機。だいたい高度は、5000から5500m。ちなみに第313爆撃団の爆撃高度は、ミッションレポートによると15200フィート~16900フィート(4632.96~5151.12m)。上空待機の高度は読みが当たっている。これはいろいろ経験があったらしく、第53戦隊の方から聞き取りをしたが、当初は、B29は高い高度からの精密爆撃、軍需工場とかに精密爆撃を高度1万メートルぐらいから来たが、都市爆撃は、だいたい3千から5千でやっている。また、第53戦隊の方から聞いたのは、3月10日の東京大空襲の時に、B29がくるので、あがったところB29はいない。上空待機したが来ない。下を見たら下はもう火の海であった。要するに第53戦隊の人は、もっと上空からくると思ったが、実は下で東京が火の海であった。それで、急いで急降下した。そういう経験から、都市空襲は大体5000メートルくらいの所で待機するようになった。ある程度飛行ルート、それからB29の高度の読みは当っていたといえるだろう。前橋上空の空中戦はどういったものであったか。22時2分に飛行第112戦隊の在空機、大宮から前橋上空へ。22時3分に飛行第53戦隊の千住上空機、高崎へ。高崎と前橋は隣同士なので、B29がくるであろう、という所に向かう。22時5分に飛行第112戦隊、さらに4機、高崎上空へ緊急発進する。22時9分には江戸川河口上の飛行第53戦隊機前橋上空へ向かう。22時13分には市川上空の飛行第53戦隊機高崎上空へ向かう。22時15分には第53、第112の各戦隊機が、B29を前橋・高崎上空で待ち受ける。B29は、前橋市のホームページによると爆撃が10時半頃に始まったといったことが書いてあるので、爆撃開始15分前には、第53、第112の各戦隊機が待機している。22時20分には第1飛行戦隊4機、前橋上空へ。第11飛行戦隊4機、高崎上空へ。攻撃開始時刻は、22時38分に「前橋付近における敵の高度5000~6000」という報告が入っているので、大体この時刻に攻撃にでたということが言えるだろう。24時に全機着陸しているので、おそらく戦闘は、22時30、40分から、24時の間の1時間20分ぐらいの間に行われたということが言えるだろうと思う。前橋防空戦に参加した飛行戦隊について、まず、飛行第1戦隊(埼玉県の高萩)4式戦闘機(疾風)が4機。飛行第11戦隊(高萩)4式戦闘機(疾風)が4機。飛行第53戦隊(藤ヶ谷)2式複座戦闘機、通称屠竜という2人乗りの双発の戦闘機で、夜間の、海軍の月光という双発の戦闘機と並んで、夜間の防空戦では最も活躍した戦闘機だろうと思われる。少し変わった戦闘機で、斜め銃というか、普通戦闘機というのは、機首とか翼に重機関砲を積んでいるが、屠竜も勿論機首に積んでいるが、背中の部分に斜めに機銃を積んでいる。要するにB29の下に入り込んで、下から迎撃する戦闘機。海軍の月光もそうである。夜間迎撃に関してはそれなりの戦果をあげた。特に第53戦隊は、夜間攻撃を得意とする精鋭部隊で、通称「猫の目部隊」。ここ群馬の新田の第112戦隊は多分5式戦、あるいは4式戦が8機あがっている。合計28機でB29を迎撃、邀撃した。なお、米軍の記録にはどの様に書かれているかというと、Tactical Mission Reportには、30から40機の邀撃を想定している。30ということからすると、ほぼ米軍の予想も当たっている。実際に目視した日本軍機として、記録にあるのは、機種不明が30機。双発機が5機、そのうち1機は確実にNickである。Nickというのは米軍が付けた屠竜の愛称。これは5機とも確実に第53戦隊の屠竜であると思う。その後の記述は何故かなと思うが、機種不明機のうち1機はBaka、桜花のことで、これは先端に爆弾を積んで体当たりする、人間が運転する人工ミサイルみたいなもので、対B12戦では、これはあり得ない。機種不明機のうち3機は、jet propelledである。要するにジェット推進である。当時ドイツの場合には、ジェット推進もロケット推進の戦闘機も実戦投入しているが、日本の場合は、開発はしていて、試作機は出来ているが、実戦投入はしていない。これも有り得ないので、多分5式戦かなと思う。5式戦の場合、非常に性能のよいエンジンを積んでいるが、エンジンの特性で、排気煙が凄かった。ことによると、5式戦の排気煙をみて、ジェットプロペラと誤解したのかもしれない。5式戦だとすれば、これは第112戦隊の5式戦になる。これが写真であるが、左上が、4式戦である。右側が松戸時代の飛行第53戦隊と2式複戦「屠竜」。そしてアメリカがBaka爆弾と呼んでいた桜花のことで、機体を見てもこれが飛んでいると、どうして誤解したのか分からない。これが飛んでくるのはあり得ない。防空戦で一番肝心なのは、結果ということになるが、米軍のTactical Mission Reportの記録によると、14機がアタック、要するに攻撃してきた。そのうち5機がアグレッシブ、積極的に攻撃にでたという記録がある。とういうことは、30機のなかで、積極的に攻撃にでたのが5機にすぎない。あれだけ高度を正確に把握しておきながら、しかも待ち受けていながら、5機しかアグレッシブではない。これはアメリカ側の記録だからいくらか日本側を低く見て書いているのかなと思ったが、日本の記録がどうなっているというと、先程の実際に前橋上空戦に参加していた中垣秋男さん、下士官の方が回想録で書いていて、「20分の飛行で前橋の上空に達したと思ふ頃、B29の焼夷弾が投下され火災が発生し利根川や市街地が見えてきた。敵の方が前橋の位置を知っていて驚いた。照空隊が駄目で敵機を捕捉出来ず、最後の燃料タンクに切り替える迄、一発も射てずに帰投した。」飛行第53戦隊長の佐々利夫少佐、この方はこう言っている。「前橋市や富山市の場合、あまりにも照空空域が狭くて、照空空域内での索敵、接敵、攻撃動作をやることができないものだった。東京の夜間迎撃で戦果をあげた理由は、照空空域が、立川から千葉まで約100キロに及ぶ区域に照空部隊が配置されていたからであった。」要するにサーチライトである。それが全然状態が駄目で、敵を捕捉できない。結果として一発も撃てなかったという様なことを言っている。屠竜は非常に夜間迎撃に活躍した戦闘機だが、海軍の場合、月光はレーダーがついている。屠竜は機体にレーダーがついていない。下からサーチライトが照らしてくれないと、敵を捕捉できない。結局正確な迎撃ができない。戦果をあげられなかった最大の原因は、照空部隊の不足・未配置である。サーチライトの不足・未配置である。米軍記録では、高崎、前橋にサーチライトを認めているが、ineffective、全く効果がなかった。結局、照空部隊の未配置というのが、前橋の悲劇につながった。正確な迎撃ができなかったことにつながっていると言えるだろうと思う。図で示すとこういうことになる。これは佐々さんが図で示したのだが、照空灯つまりサーチライトで照らして、その明かりを頼りにまさに飛行機が、屠竜の場合は下から行って、B29の死角である背面、下の部分を撃つ。これが結局出来なかった。では高射砲部隊のほうはどうであったか。最新式の高射砲があると言ったが、これは日本側の記録がないので、米軍の記録を基に言うと、彼らが警戒していたのは、太田上空であり、太田の高射砲を非常に警戒している。約30門のheavy guns(実際は24門)それを警戒している。射高は1200フィート(3657.6m)と予測している。高射砲のカタログデータ上は迎撃可能だが…。因みに前橋には高射砲部隊がいないという分析も行なっている。やはり警戒したのは太田上空であった。ルート上(太田、銚子)、目標上空の対空砲火は、meager、inaccurateつまり貧弱、不正確である。要するに何の効果なかった。No aircraft were lost or damaged as a result of flak on this mission.このミッションにおける対空砲火における被害はゼロであった、ということが記録に残っている。要するに対空砲は役に立たなかった。

最後のまとめになる。皆さんもご存知だと思うが、1945年8月5日の前橋空襲における米軍機の損失はなかった。これは少し言葉が悪いのだが、第313爆撃団によるワンサイドゲームであった。これは何故かと言うと、米軍機92機に対し、迎撃する日本軍機は28機にすぎない。B29はなかなか墜ちない。実はこの何倍かの日本軍機であたらないといけないのだが、それだけの飛行機があがっていない。それはなぜかと言うと、本土決戦に備えての戦力温存のため、来たる本土決戦に備えて飛行機を損失することができないから、出撃の頻度が制限されている。それから照空燈の問題、照空燈(照空部隊)が絶対的不足している。東京周辺はあるが、少し地方にいくと、照空燈(照空部隊)が置かれていない。飛行機があっても、それを助けるための照空部隊がいない。防空インフラの未整備であった。それから飛行第112戦隊のところで、新鋭機を揃えていると言ったが、その内実はどういったものであったかと言うと、操縦者は96名をそろえたが、主力は若年の航士(航空士官学校)57期生と特別操縦見習士官(学徒動員の人達)で練度の不足はおおえなかった。要するに熟練のパイロットがいない。訓練に必要な燃料も不足。だから、ろくな訓練もおこなえなかった。それから、高射砲の能力不足があったということが言える。それから高射砲部隊の絶対的不足。終戦時でも群馬県には、先程の独立高射砲第4大隊のみ。非常に高射砲部隊も少ない。実は、前橋空襲より数か月前、1944年の段階で、まさに帝都防衛の中心になった第10飛行師団の長吉田喜八郎がこういう事を言っている。来襲期の1945年の段階ではなくて、1944年の段階で既にこういう事を言っている。「来襲機数の九パーセントを撃墜し、我は戦力の10パーセントを失ひたり。(要するに敵機を9はパーセント撃墜してもそれに引き換えて我が方は10パーセント戦力を喪失する)此の如く、予期したる戦果を挙げざりし主原因は我の科学技術の立ち遅れに在し、その欠陥を補ふ為に無理と知りつつ無理を強行せざるを得ざりき。…今や全て遅し。依然、無理を強行する以外に手段なし。」というような事をまさに帝都防衛の最前線にあった飛行師団が「昭和十九年度歳末所見」、意見書を書いている。1944年の段階でもはや防空の手段なしと言っているようなものである。もはや、前橋に空襲された段階の日本には、「高射戦史」の表現をかりれば、「従来の空襲見積りと外征思想を根底からくつがえした」要するに都市無差別爆撃とかはそういうことである。それから爆弾の量も全部違う。そういう空襲見積りと外征思想を根底からくつがえしたB29による爆撃に対抗するだけの手段、というよりも、もはや体力がなかったということが言えるだろうと思う。にもかかわらず、あくまで本土決戦にこだわった大本営の参謀達の意識構造はどの様なものなのか、改めて考え直している。

 

【質疑応答】

岩根委員

非常に詳細なお話で、結局前橋の場合は、なんら被害をあたえることができなかった。ポツダム宣言が出てから前橋のような中小都市が4、50空襲を受けているなかで、ある程度対応できた都市があったでしょうか。

栗田先生

正直に言ってあるといえばあるのだが、それなりの対応、高射砲部隊が配置されている、いわゆる東京航空要塞の範囲内のところだとそれなりの対応をした所がある。要するに神奈川県であるとか、そういう所は対応した。ただそれでも被害は大きい。一つは、神奈川県とか、千葉県とか、茨城県もそうだが、茨城県はあまりやられていないが、神奈川県の場合は、実は今日の報告で言わなかったが、海軍が全然出てこない。防空に対するすみわけがあって、海軍施設がある所は、海軍が担当して、それ以外の所は陸軍が担当する役割が出来ている。東京とか神奈川とかは海軍の色々なものが多いから、精鋭の海軍航空隊、厚木の302航空隊とか、横須賀航空隊とかが、帝都防衛で動くので、それなりに戦果をあげるが、少し外に出てしまうと、総体的に海軍の応援がないこともあり、帝都防衛に集中しているので地方都市の防衛が弱い。実は高射砲部隊も「高射戦史」によると、配備が7月頃である。極めて遅く、前橋もそろそろ危ないのではないか。そういう意味では極めていい加減な感じで配置している。ある程度と言ってもそれは程度の差であって、前橋は米軍の被害ゼロであるし、それから神奈川では米軍に被害がでているが、それでも多大な被害がでていて、圧倒的に戦力が違う。

吉良委員

横須賀の話が出てきたので、私は横須賀市史の編纂にも関わっていて、立体によくわかった。本当に横須賀は受けていない。今回この様に前橋との比較が出来ると、戦争というのはどの様な枠組みでどの様に攻撃をしかけてくるのかを見抜く、その戦いなのだなということが今日立体的によく分かったので、これは本当に横須賀市史をやるよりもっと前に知っておけば、良かったと思った。遅きに失したが、今日本当に理解がよくできた。

新井委員

お話を聞いて無謀な戦争だったと思う。前橋市民の犠牲が大変多かったので、大変悲しい気持ちになった。頻繁に軍の組織が変わっていたように最初の頃感じていたのだが、この辺は何か事情があったのでしょうか。

栗田先生

やはり戦局がどんどん悪くなっていって、まずマリアナ沖海戦で敗れて、サイパン島を失ってそれから沖縄の問題もあってそうすると、変えていかないと、対応しきれない。海外の部隊も駄目になっていく、海軍が駄目になってくる。ではどうするか。どんどん組織を変えていかなければならない。連合艦隊も事実上駄目になっていく状況の中で、頻繁に変えていかざるをえない。要するにあるもので如何に対応していくかということを考えいかなければならないということである。

手島委員長

私は高射砲というのが、先生の説明で初めてこういうものか、と解った。先生のこの研究も沢山今度の展示等に使わせていただきたい。その中で、新田飛行場は、我々が生品飛行場と言っているものか、それとも別の飛行場でしょうか。新田町は、戦後出来たので、当時生品飛行機というのが太田の南にある。中島飛行機の太田飛行場はもちろんわかるが、その南に当時は、生品村の所に。それは、戦後に社会党の須永好が払い下げを受けて、開墾地になって、入植をする。これは有名な生品飛行場なのだろうかと思っている。図にした時にどこから飛び立ったとか、図表化する時に、少し先生にお調べいただきたい。それからもう一つ、私どもがこの検討会の前に準備会の時に熊谷に視察に行ったのだが、先生がご指導されていたということで、8月14日にも伊勢崎が狙われて、熊谷かどちらかなのかは分からないが、その余波で前橋の周辺でも攻撃をされている。今度の平和の資料館を作る時には8月5日だけではなく、14日も扱わなければならない。8月5日は、前橋が中心のため研究されているが、14日は、伊勢崎、熊谷は周辺なのでなかなか研究が進んでいないが、先生がこの辺の前橋を含めて14日のことをご研究されていたなら、その後の成果を教えていただけたらと思う。

栗田先生

私も熊谷のことは、昔やったことがあって、その関係で伊勢崎のことも少し調べたことがある。どうしても米軍の資料を見ると米軍サイドで見ているから、その時に、余波というと失礼だが、そこに受けた空襲は今一米軍の記録だけだと分からないことがある。有名なところでは、地元では地元の悲劇で、まさに明日は終戦の日の小田原空襲で、あれはまさに伊勢崎と熊谷にやった部隊で、彼らの言葉を使えば、トラッシュボックスという言い方をしている。ごみ箱、要するに飛行機は、爆弾を積んだまま着陸すると、失敗したとき危ない。どこかで落としていかないといけない。まさに彼らにとってはごみ箱のつもりで、落としていったのが小田原上空であった。ところが米軍の記録には、ごみを捨てただけなので、全然残っていない。これなど、戦争の酷い扱いだと思う。米軍の資料に、米軍はどこに落として、何平米を、とかでてくるが、今のように精密爆撃と言ってもそんなに精度が高いわけではない。当然風で前橋にいっているのもあるので、それは地元の資料と比べてみる必要がある。あとは戦略爆撃調査団がそれをやっているかどうかである。聞き取り調査をやっている。

手島委員長

ちょうど、前橋の南の私の上川淵村に14日に落とされて、村の中でも上佐鳥、字である、中原というところがやられて、9戸が全焼、田んぼにもかなり多く落ちて、翌日子どもがそれで遊んだら、撥ねて亡くなった。「戦災と復興」には載っていないが、村史を編纂した時にその様な記録もあった。それから少し郊外の総社のむこうの東国分のあたりは、集落の半分が全焼する。そういった資料も調査できればいいと思う。

岩根委員

先生の話は、防空戦、空軍部隊との話であるが、前橋が空襲された時に、実は前橋には本土決戦部隊が少なくとも、千以上の数の兵がいたはずだが、そういう部隊との連携みたいなのはなかったのでしょうか。具体的にはこういった記録が残っている。前橋に一番古い小学校、桃井小学校に50名の部隊がいた。空襲警報と共に全員退避した。全部空襲が終わった後に戻ってきて、桃井は燃えなかったが、校長先生が先生方を呼んで火の粉が飛んでくるのを払った。その結果燃えないですんだ。ただ都市伝説的にあの地域では部隊がいたので、兵隊がいたので、桃井小学校は燃えなかった。そういう話すらでてくる。それだけの部隊が前橋市の小学校に駐屯していながら、一切空襲の現場に出てこない。空の方では、結果的にあまり効果はなかったが、対応しているが、その辺の軍の相互の関連は全くなかったのでしょうか。

栗田先生

本土決戦部隊ではないだろうか、仙台かどこかで結成された青葉部隊とか。そこら辺の連携プレーというのは聞いたことがない。防空時にどうするか、とか兵舎が焼かれた時には火を消すとかはあったと思う。本土決戦に備えてという事なので、その後罹災地をどうにかしろといった、その辺の命令系統はあまり分からない。

岩根委員

我々から見ると、軍隊が国民を守ると言いながら、空軍は努力されたとしても、陸軍部隊が駐屯している前橋の部隊は、全く関与しない、手出しもしない、そういった矛盾がある。市民のサイドから見ればどうしてだろうという、という感じがあるが、その辺の陸軍側の連携みたいのは結果的にはなかったのでしょうね。お役目が違うということでしょうか。

栗田先生

やはりあの本土決戦に備えての兵力温存ということもあった。不用意に兵員を減らさないということもあったと思う。まさに航空機でもそうであった。軍の論理というか、市民は二の次になっている。

 

【意見交換】

栗田先生

1つだけ教えていただきたい。戦災復興について、非常に名古屋は有名である。それが今、名古屋のきちんとした道路整備につながっていると言われるが、そういう、規模は違うが、前橋市の場合は、名古屋のような戦災復興計画はあったのでしょうか。

小林先生

私が言った2つ目の戦災復興という点で言うと、都市の規模が違うというのが、一番と言えは一番だが、名古屋は全国的にも大きな都市という認知は70年前にもされていたのだが、戦災復興の規模も全然違う。名古屋のようなちゃんとしたというような表現が出来るかどうか分からないが、前橋には前橋市にあった戦災復興計画は立案され、行われているという認識で大丈夫だと思う。それが少し現代を生きる我々にとって不満が残るものだということは、現在の価値観に照らし合わせるとそういうことかもしれないが、当時ではしっかりとしたものがたてられて、戦災復興史というのがまとめられていているので、そちらで、全国140か所位の戦災復興が見ることができるので、前橋もちゃんとたてられていると分かる。

手島委員長

小林先生、1つ質問であるが、この資料館を作るにあたって、復興が終わったとある程度決めなければならない。前橋では、例えば、昭和28年位に全国でも最も早く復興が完成した、と言われるが、戦災都市連盟の受けた計画は、10年して、更に延長して、といった形で昭和35年位まで続くが、都市計画上では、いつをもって、復興完成ということにされているでしょうか。

小林先生

全国で行われている復興計画の終わりというのは、大体土地区画整理の事業が終わったので、終わりとされている。ただ完全に終わったというわけではなくて、土地の価格の清算とかは、引き続き行われている。全般的には、土地区画整理事業が、区画整理が終わる大体1955年位に集中している。大体10年をもって終わりにしている所が多いと思う。

手島委員長

私の今の私見なのだが、前橋の場合は、「戦災と復興」を出した時点で、終了したとするのがいいのではないかと思っている。先生、その辺はご賛同いただくか、ご意見あるでしょうか。

小林先生

今回の私の主旨もそういうところがあって、どこで終わりにするか、というのは、例えば、1945年8月15日をもって敗戦かどうかということや、今のホットな話題で言えば、ロシアはそんなことは思っていなかったわけである。どういう視点で見るか、ということが重要なので、今回の記念館が作成されるということで、前橋としてどの様に捉えるかが重要であると思うので、前橋はこういった期限を設けたと、いうメッセージを出すのは、子供たちの教育とかでも重要なことだと思うので、全国的な視点とか、世界的な視点というよりは、前橋市がこの様に考えるという、十二分にあり得る話だと思う。先程の話は賛同している。

手島委員長

ご賛同いただいた。私はその様にこだわっている。

今回で、3回学習会が終わったので、視察を踏まえ次回は振り返りで、前橋空襲の定義、どの辺までを扱って、それから死者を含めて、どの様な資料で、列記していくとかを、まとめをしなければならない。それを受け、どの様にプランニングしていくかということをやりたいと思う。委員の先生方には、今までの学習会の資料を見ていただいて、それで私は今後議長案で、メモというので出そうと思う。それをたたいていただいて、進めていきたいと思う。もう1点は、やはり開館した時に、小学生に見ていただきたいので、高松市の例もあるので、教育委員会を呼んで、この様な形で、視察をしていただきたいというお願いをしたい。組織が大きいので、早くから投げて、色々な部署で検討してもらい、オープンの暁には小学生が見るというような体制がとれるようなそういった話し合いの第1回を教育委員会と持ちたい。この様な形で次回を進めたいと思う。

 

(2)その他

特になし

 

4 事務連絡

(1)令和4年度第6回会議以降の開催日程

事務局

次回以降の会議開催の確認

 

5 閉 会

以上

配布資料

更新日:2022年12月20日