地域再発見 利根川の岸にたたずむ長壁神社(大手町一丁目)

(注意)このページは、前橋市が各地区に設置している地域担当専門員が、地域の行事に参加をした内容をまとめ、作成したものです。
なお、地域担当専門員は、地域の主体的な活動を支援する役割を果たし、また、地域と行政のパイプ役を果たす事を目的に設置されています。

幾多の伝説を生んだ長壁神社

 群馬県庁の西側、利根川左岸の崖上に小さな社があります。
 松平氏が姫路から前橋に転封になった1749年(寛延2年)、前橋城の守護神とするため、城の裏鬼門にあたるこの地に社殿を造り長壁神社を姫路城から遷座したものといわれています。

 利根川は、15世紀頃から現在の流路に変流したといわれていて、その後洪水の度に川幅を広げ、18世紀後半にはほぼ現在の姿になったようです。
 前橋城は天然の要害であるこの利根川を西側に配し、北側から東南に流れる広瀬川を遠構えとした総面積約15万坪にも及ぶ堅固の城でありましたが、酒井氏の時代から利根川の洪水による城への浸食は甚だしく、酒井氏に替って前橋藩主になった松平朝矩(とものり)も、崩壊が進む前橋城の修理に頭を悩ませます。
 本丸は既に利根川に欠け落ち、三の丸に御殿を移していましたが、その後も浸食は収まらず、1763年(宝暦13年)には城と川との間は25間(約45メートル)になった程で、ついには前橋城の放棄を考えざるを得なくなります。

 そんな状況のなかでの話です。
 殿様が川越への城替えを考えながらうとうととしていたところ、目の前に1人の美女が現れます。
 何者かと尋ねると美女は「お殿様は、城替えを考えておられるようですが、自分は姫路からこの城に移られた時にお供をしてきた長壁神社である。今度もお供をさせてもらいたい」と頼み込みます。
 殿様は「城の守護神ともあろうものが、城が流れ落ちようとする時に城替えするとなれば連れて行けと言うのか」と思い「そのようなものは連れては行けぬ」と告げると、美女はかき消すように見えなくなったといいます。
 1767年(明和4年)、ついに松平朝矩は川越に移城し、前橋城は取り壊されてその跡には陣屋が置かれますが、長壁神社はここに残されました。
 後日談として、取り残された長壁神は地元の人々の夢枕に立って「川越に行きたい」と訴えたという話や川越に移った翌年、朝矩が31歳という若さで亡くなったのは長壁神の祟りだという話があります。

 長壁神社は取り残されましたが、土地の人々からの信仰は続き祭祀は絶えなかったようです。
 現在の社殿は、昭和になって造られ、鳥居は昭和15年(皇紀2600年)に建てられていて、地域の鎮守様として親しまれています。
 今でも、毎月第3日曜日には地元の人達が長壁神社に集まり境内を清掃しています。
 姫路から前橋の地に移り既に270年近くが経ち、眼下の利根川は、今ゆったりと流れていますが、かつては城をも切り崩す程の暴れ川であり、そのことでこの地に残された長壁神社。時の流れをどのように感じ、どのようにこの風景を見てきたのでしょうか。

社殿の写真

静かにたたずむ社殿

石柱の写真

「長壁神社」の案内石柱

鳥居の写真

石鳥居はやや低い

社殿からの鳥居の写真

社殿側から見た鳥居と狛犬

利根川上流の写真

利根川上流を望む

清掃1の写真

清掃作業の様子

清掃2の写真

作業を終えてほっと一息

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更新日:2021年01月22日