萩原朔太郎記念館 概要
「萩原朔太郎記念館」について
前橋市北曲輪町69番地にあった生家のうち、土蔵は1974(昭和49)年に敷島公園ばら園内に移築され展示施設として翌年4月1日に一般公開されました。その後、書斎・離れ座敷も一か所に集め、書斎を1978(昭和53)年に、離れ座敷を1979(昭和54)年にそれぞれ同地へと移築し、1980(昭和55)年5月11日より記念館として一般公開していましたが、これらの建物を前橋文学館と広瀬川を挟んだ河畔緑地へと移築復元し、2017(平成29)年4月8日から、新たに公開しました。
土蔵
1901(明治34)年頃に建てられました。この土蔵は萩原家の守り神とも言えるもので、1945(昭和20)年8月5日の空襲によって市街地の8割を消失したときには、生家はこの土蔵により戦火を免れたといいます。ここに保存されていたノートや原稿、朔太郎あて書簡をはじめとする数多くの朔太郎資料が今日に伝えられているのも、まさにこの建物の功績といえるでしょう。
書斎
生家の裏庭にあったもので、元来は味噌蔵として使われていたものを書斎に改造したものです。内部はセセッション式(西洋の建築・美術・工芸上の一様式)に統一され、当時としては先進的なものでした。これらは朔太郎自身の考案によって整えられたもので、『月に吠える』や『青猫』などの多くの作品はこの書斎で生まれました。
またこの部屋は音楽室とも呼ばれ、朔太郎はここで演奏会や集会を開きました。
離れ座敷
1892(明治25)年頃に朔太郎の父密蔵によって建てられ、主に来客の接待に萩原家が使ったものです。朔太郎が生家に住んでいた頃、北原白秋、若山牧水、室生犀星などが訪れ、この部屋に通されたといいます。
生家跡
萩原朔太郡の生家は、前橋市北曲輪町(きたくるわちょう)69番地(現・千代田町二丁目1番17号)にありました。父密蔵は名医として信望篤く、一時期は患者に整理札を出すほどであったといわれています。
萩原朔太郎(1886年から1942年)
1886(明治19)年、千代田町の医師の家に生まれました。北原白秋に師事し、26歳のときに「みちゆき」ほか5編の詩で中央詩壇にデビュー。1917年(大正6)年の第一詩集『月に吠える』で、一躍全国に名を知らしめ、その後も『青猫』『純情小曲集』『氷島』など次々に発表。日本近代詩に不滅の金字塔をうちたてました。
開館情報
- 見学可能時間 午前9時~午後5時(室内の見学は午後4時30分まで)
- 休館日 水曜日・年末年始
- 入場料 無料
アクセス
- 関越自動車道前橋インターチェンジから車で15分
- JR両毛線前橋駅から徒歩20分
- 上毛電鉄中央前橋駅から徒歩5分
- 周辺駐車場をご利用ください。
(市営パーク城東をご利用の方で、前橋文学館を併せて見学していただいた場合は2時間分無料の割引処理を致します)
この記事に関する
お問い合わせ先
文化スポーツ観光部 文化国際課 前橋文学館
電話:027-235-8011 ファクス:027-235-8512
〒371-0022 群馬県前橋市千代田町三丁目12番10号
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更新日:2019年02月01日