地域再発見 安井与左衛門効績碑(大手町三丁目)

(注意)このページは、前橋市が各地区に設置している地域担当専門員が、地域の行事に参加をした内容をまとめ、作成したものです。
なお、地域担当専門員は、地域の主体的な活動を支援する役割を果たし、また、地域と行政のパイプ役を果たす事を目的に設置されています。

利根川の治水に功績のあった安井与左衛門

 「るなぱあく」(前橋市中央児童遊園)の飛行塔そばの斜面に「安井与左衛門効績碑」がひっそりと建っています。
 安井与左衛門の名前を聞いたことのある人は少ないと思いますが、前橋にとっては大変大きな役割を果たした人物なのです。

 1601年(慶長6年)に酒井氏が前橋(厩橋)城に入った頃、利根川は城を守る天然の要害でありましたが、17世紀後半になると利根川が城を侵食し始め、18世紀初頭に流れを変えようとして向かい側の河原に新たな流路を掘るものの侵食は進み、18世紀後半には、本丸も危うい状態となります。
 酒井家と入れ替わって前橋に来た松平氏の時代にも城の「川欠け」は続き、わずか19年で川越に移らざるを得ませんでした。
 その後、約100年間前橋は陣屋支配となり荒廃が進みますが、藩にとって前橋領は財政的にも重要な場所であったため、藩命によりその復興と開発に安井与左衛門があたります。
 まず、1831年(天保2年)に漆原の廃溝(天狗岩用水)や川井、飯倉、沼上の3村の水路の復旧・整備などに力を尽くし、前橋領内で良田750町歩(約750ヘクタール)を復活させます。
 さらに、利根川の浸食を防ぐため、川の中央に長さ428間(1間は約1.82メートル)、幅40間、深さ2間の新川を掘り、別に城の上流に122間の石堤(今でも岩神町にその一部が残っていると言われています)を築いて流路を変えて治水事業に功績をあげます。
 こうして「川欠け」の心配がなくなったことにより、後に松平氏は再び前橋に城を築き戻ってくることができることとなり、今の前橋があるのも安井与左衛門が成し遂げた治水の功によると碑文の中で称えています。
 また、1833年(天保4年)の飢饉の際に、上司の反対を押し切って藩の貯蔵米を領民に分け与えたという話も残っています。
 亡くなって70年近く経って後、旧前橋藩の家臣や領内の有志らがこの碑を建てているのは、いかに多くの人々が安井与左衛門の功績に感謝しているかを示しているように思えます。

「安井与左衛門効績碑」1922年(大正11年)10月1日 建碑
高さ345センチメートル、最大幅185センチメートル、厚さ28センチメートル

石碑全体の写真

風呂川の南側の斜面に建っています

石碑アップの写真

正式な名前の「政章」が入っています

飛行塔そばの写真

飛行塔の隣です(奥が建碑寄付者碑)

寄付者碑の写真

「安井翁建碑寄付者」の石碑

岩神の石堤の写真

安井与左衛門の石堤か?(岩神町一丁目)

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更新日:2021年01月22日