下川淵カルタ

下川淵カルタの紹介

下川淵カルタ
下川淵カルタブックレット

令和元年に発刊された下川淵カルタの解説本「カルタブックレット」

読み札と

下川淵への関心や愛着を深め、郷土に誇りをもってもらおうという思いから、地域の方を中心に組織された「下川淵カルタ作成委員会」により平成19年に完成したこの「下川淵カルタ」。地域で知らない方はいないというほど、しっかり文化として根付いており、「カルタ大会」、「カルタウォーク」、「カルタアート展」などカルタにちなんだイベントも毎年開催されています。下川淵地区のまちの様子を表す「コミュニティデザイン」においてもこのカルタは重要な役割を担っています。

カルタマップ

カルタマップ表
カルタマップ裏

読み札(解説付き)

○あ 「安産(あんざん)願(ねが)って 七(なな)観音(かんのん)」       矢島七観音

極楽寺の末寺西福院に安置されていた七観音像が明治初期の廃寺後もこの観音堂に祭られてきた。七観世音(かんぜおん)は、千手(せんじゅ)観音・馬頭(ばとう)観世音・十一面観世音・子安(こやす)観世音・聖(しょう)観世音・如意(にょい)輪(りん)観世音・不空絹索(ふくうけんさく)観世音。安産、子育てなどに霊験(れいげん)あらたかと伝える。〔亀里町矢島〕

○い 「一光(いっこう)三尊(さんぞん) 善光寺(ぜんこうじ)」         善光寺

天台宗の寺。平安時代大同2(807)年「伝教(でんきょう)大師(だいし)開基創建」と伝える。本尊は一光三尊阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)で長野の善光寺の本尊と同様1つの光背に阿弥陀如来・観音菩薩(ぼさつ)・勢至(せいし)菩薩の三尊が並ぶ形式。近くに持田盛二の父で初の剣道の師、持田善作(ぜんさく)の墓がある。〔鶴光路町〕
 

○う 「海(うみ)はすぐそこ 北関(きたかん)道(どう)」      北関東道 

群馬・栃木・茨城の北関東3県を東西に結ぶ全長約150キロメートルの高速道路。西の起点、高崎で関越道に、太田の先で東北道に連結する。東の玄関口は、太平洋に臨むひたちなか市。全面開通予定は2011年度。地区内にある「前橋南」は駒形と並ぶ前橋市内のインターチェンジ。
 

○え 「栄光(えいこう)しのぶ 屋敷(やしき)濠(ぼり)」         屋敷濠

地区内には昔、広い屋敷の周囲に濠(ほり)をめぐらした家が散在していた。江戸時代以前からのもので地域の支配的地位にある有力者の屋敷だった。後世に濠そのものは多くが無用として埋められ消滅したが、鶴光路町に現存するものでその典型的な姿を見ることができる。
 

○お 「お宮(みや)やお堂(どう)に 手(て)を合(あ)わせ」   信仰

たとえば、薬師(やくし)さま、不動(ふどう)さま、石尊(せきそん)さまなどの名で親しまれている集落の信仰遺物は少なくない。幟(のぼり)旗を揚げたり供物をささげたりする例祭や縁日などは、おおむね長い伝統に根ざすしきたりに従って行われ、信仰の習俗として現在なお地域生活に息づいている。
 

○か 「亀里(かめさと)鎮守(ちんじゅ)の お諏訪(すわ)さま」      亀里の諏訪神社諏訪神社

亀里町竜門にある。他の神社と同じく由緒は不明。祭神は建(たけ)御名方(みなかたの)神(かみ)ほか9柱。1908年に竜門・阿内宿・寺家・矢島の神々を合祀(ごうし)し、亀里の鎮守として祭られている。例祭は3月27日、10月17日。2006年には明治年間以来約120年ぶりとなる社殿大改修を行った。
 

○き 「きずなを結(むす)ぶ 地区(ちく)活動(かつどう)」       地区交流活動

地区内では各町の自治会をはじめさまざまな団体活動が活発に行われている。それぞれが共通して目指すところは明るく住みよい地域作り。そのために何よりも大事なのがみんなの協力である。リーダーとして日夜を分かたず先頭で歩む役員さん方への期待も大きい。
 

○く 「公田(くでん)に残(のこ)る 渡(わた)し跡(あと)」          公田の渡し

川を渡る人を舟で運ぶのが「渡し」。公田町と利根川対岸の高崎市萩原(はぎはら)町間は明治時代1870年代に舟橋が架かっていた。洪水で流失しやすい舟橋を1883年に渡しに代え、昭和大橋開通まで約100年間、県の管理によって運行した。公田の人が船頭を勤めた。[公田町]
 

○け 「けやき 千年(せんねん)極楽寺(ごくらくじ)」          極楽寺

天台宗の寺。平安時代864年、慈(じ)覚(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)の開基。本尊の阿弥陀如来坐像(ざぞう)は源頼朝所蔵の行基(ぎょうき)菩薩作(乾漆(かんしつ)造り)で常盤(ときわ)御前(ごぜん)の菩提(ぼだい)のために下賜(かし)されたと伝える。江戸時代には御朱印(ごしゅいん)35石が与えられた。境内にある欅(けやき)の巨木は推定樹齢が約1,000年。〔亀里町寺家〕
 

○こ 「古墳(こふん)の上(うえ)に 浅間(せんげん)神社(じんじゃ)」       古墳と浅間神社

古墳は小規模な前方後円墳。前方部はほとんど崩壊したが高さ約7メートルの後円部の頂上に浅間神社が鎮座(ちんざ)している。富士山をあがめる神社で、屋敷内にある高所を生かして勧請(かんじょう)され祭られてきた。1,000年以上を隔てる古墳時代と江戸時代とが組み合わされた。〔横手町〕
 

○さ 「三丸(さんまる)の(しゅ)守護(しゅご) 飯(いい)玉(だま)神社(じんじゃ)」       飯玉神社

祭神は宇気母智神(うけもちのかみ)など15座。明治時代の1907~10年、地名などの共通点から「三丸」と呼ばれる、力丸・徳丸・房丸の各集落の神々を合祀(ごうし)した。例祭は4月3日、10月17日。境内の「返り松」は戦時中、出征兵士の無事の帰還を祈る人々の信仰を集めた。〔力丸町〕
 

○し 「縄文(じょうもん)土器(どき)の 徳丸(とくまる)仲田(なかだ  )」       徳丸仲田遺跡

1998年、北関東道建設に伴う発掘調査により、縄文草創期(そうそうき) 約12,000年前の土器が見つかった。縄文土器の出土は地区内初。県埋蔵文化財調査事業団が復元したその深鉢(口径26センチ高さ29センチ)は、ふるさとの地の遠い古代への思いをかき立ててやまない。〔徳丸町〕
 

○す 「姿(すがた)ゆうゆう 赤城山(あかぎやま)」           赤城山

関東平野の一角、下川淵は西南から北東につらなる山容の変化に富んだ景観に恵まれている。とりわけいちばん大きな標高1828メートルの赤城山は上毛を代表する名山で、その最高の姿を見せている。山頂に並び立つ高い峰々。長いなだらかな裾野(すその)。永遠に変わることなく。
 

○せ 「千手観音(せんじゅかんのん) 善(ぜん)昌(しょう)禅寺(ぜんじ)」        善昌禅寺

臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺派(えんかくじは)の寺。開創は室町時代1407年、那波(なわ)式部(しきぶ)少輔(しょうすけ)大江宗広と伝える。本尊は釈迦(しゃか)如来像。門は薬医門(やくいもん)様式。境内の「忠魂(ちゅうこん)千手観音像」は1934年、満州(まんしゅう)事変(じへん)の戦没者の慰霊のために、十八世寛英和尚が檀家の農業・角田政市氏の協力で手造りした。〔力丸町〕
 

○そ 「そろって出(で)かける 運動会(うんどうかい)」        市民運動会

すべての地区団体代表によって組織される実行委員会などが運営する恒例のスポーツ・レクリエーション行事。第1回は1971年。小学校校庭を会場に地区住民総出で秋の一日を楽しむ。多彩なプログラムの中でも町対抗の採点競技が最大の関心を集めて盛り上がる。
 

○た 「だれの化身(けしん)か 滝(たき)の主(ぬし)」       緋の滝伝説 

  端気川に「樋(ひ)(緋(ひ)、火)の滝」と呼ばれた滝があった。両岸には木々が生い茂り昼でも薄暗い所だった。樋の滝伝説がある。――女の人が悲しみのあまり滝に身を投げた。彼女はやがて緋鯉に化身し、滝の主になった。滝の跡の近くに「樋之滝(ひのたき)橋がある。〔下阿内町〕
 

○ち 「地域(ちいき)うるおす 端(は)気(け)川(がわ)用水(ようすい)」    端気川

市内三河町の広瀬川十六本堰(じゅうろっぽんぜき)で発する川で、ほぼ地区全体の灌漑(かんがい)用水を供給する用水路。土地改良に伴い河川改修がなされた。地区を南流して分水を重ね、下阿内町で利根川に注ぐ。流路は一部で上川淵地区、玉村町との境界線でもある。地区内に11本の橋が架かる。
 

○つ 「集(つど)うよろこび 公民館(こうみんかん)」         公民館

地域住民のために教育、学術、文化などに関する各種事業を行う市の施設。2000年の建て替えで図書室ほか施設機能の規模拡大がなされた。市役所出張所が置かれ一般行政の一端も担う。地区内各種団体の活動拠点であり、人々の交流を生む最大の集いの場である。
 

○て 「田園(でんえん)地帯(ちたい)に のっぽビル」      農協ビル

1981年に完成したJA群馬中央会・信連、全農ぐんま、ほか県下のJA(農協)関係団体の中心拠点。電算センター、花木流通センターほか関連事業所などが隣接している。ビルの規模は地下1階、地上10階、塔屋2階。高さ52メートルの“長身”は地区内抜群。〔亀里町〕
 

○と 「利根(とね)にいだかれ 下川淵(しもかわふち)」      下川淵地区

1889年、市町村制で利根川にちなむ名の下川淵村は誕生。北緯36度20分・東経139度5分・面積9.16平方キロメートル・人口3,097人。純農村だった。1954年、前橋市に合併。南流する利根川がこの辺りで流路をやや東に変える。地域を大きく抱きかかえるかのように。
 

○な 「並(なら)ぶ大橋(おおはし)  『昭和(しょうわ)』と『横手(よこて)』」  利根川の大橋

県域を東西に2分する利根川はいつの時代でも交通上の障害だった。1972年開通の昭和大橋(高崎駒形線・全長205メートル)、1キロ下流に2001年開通の横手大橋(前橋長瀞(ながとろ)線・全長284メートル)はともに利根川のイメージを変え、地域開発を加速させている。〔公田町・横手町〕
 

○に 「新堀(にいぼり)西(にし)は 花(はな)の町(まち) 」          新堀西団地

新堀町地内の利根川沿いに広がる区域に民間開発により1998年に分譲を開始した376戸の住宅団地。新堀西は自治会名。南北に伸びるメーン・ストリートほか各街路に沿う家々が歩道に面して造られた花壇の花木や草花が、特徴ある町並みの景観を生み出している。
 

○ぬ 「ぬくもりの心(こころ) 石(いし)の塔(とう)」   亀里町阿内宿の石幢(せきどう)

石幢(せきどう)は仏堂などにある幢(とう)幡(はん)が石造物に転じたものとされる。室町時代1498年の造立。刻まれた銘文中に「逆修(ぎゃくしゅう)善根(ぜんこん)」とあり、生前供養のために造られたものである。幢(とう)身(しん)にある穴は輪廻(りんね)車に使ったもので、時代の特色を示している。市指定重要文化財。〔亀里町阿内宿〕
 

○ね 「根付(ねづ)いて百年(ひゃくねん) 安来(やすき)節(ぶし)」    横手の安来節

1906年、2人の住人が東京浅草で安木節を習得し村に伝えた。出雲のどじょうすくいに、米作りの仕事を表す田植えの仕草などを加え、独特の横手安来節を生み出した。2006年、伝承100年を機に価値ある郷土芸能と位置づけ、町自治会の保存体制が発足した。〔横手町〕
 

○の 「野道(のみち)にたたずむ 石仏(いしぼとけ)」     道祖神・野仏

地区内の路傍にはかつて地蔵、馬頭観音、庚申塔、道祖神ほか石造物が信仰の対象として人々の往来を見守っていた。今は多くが社寺境内などに移り、野道は車の走る舗装道路に変わった。それらが野道にひっそりとたたずむ風景は郷愁を誘う遠い過去の幻となった。
 

○は 「春(はる)は桜(さくら)の 油傳堀(ゆでんぼり)」           油傳堀

油傳は田畑だったころの小字(こあざ)の地名で堀は利根川に流れる水田の排水溝。1980年代の下川団地730 戸の造成に伴い河川改修が行われた。両岸の60本あまりの桜並木とともに町の誇りのシンボル。季節の自治会行事「桜まつり」を毎年盛大に開催している。〔下川町〕
 

○ひ 「百(ひゃく)庚申(こうしん)の 新堀(にいぼり)神社(じんじゃ)」        新堀神社

辺りはかつて人里離れた所だったが今は新堀西団地に囲まれている。祭神は宇迦之(うかの)御魂(みたまの)命(みこと)ほか13柱。1908年に鶴光路や下阿内の神社を合祀した。例祭は3月15日、10月17日。境内に江戸時代以後盛んになった庚申信仰にちなむ庚申塔が93基現存する。〔新堀町〕
 

○ふ 「文化(ぶんか)の祭典(さいてん) 花開(はなひら)く」          文化祭

下川淵公民館や各町内の自主学習グループが日ごろの活動の成果を発表し合う全地区レベルの一大文化行事。生涯学習、文化活動などを中心に、毎年幅広い分野の参加で多彩なイベントが繰り広げられる。1981年が第1回。公民館と各種団体による実行委員会の主催。
 

○へ 「平和(へいわ)の祈(いの)り 英霊殿(えいれいでん)」          英霊殿

1952年、旧下川淵村が小学校に隣接する奉安殿跡地に建立した。日露戦争から太平洋戦争までの地区出身の戦没者172人の名簿を納めている。毎年、地区戦没者追悼(ついとう)式が下川淵公民館で営まれる。敷地内に旧村役場前から移した「日露戦役紀念碑」がある。〔鶴光路町〕
 

○ほ 「母校(ぼこう)下小(しもしょう) 大(おお)えのき」      下川淵小学校

1875年亀里小学校の名で開校。尋常高等小学校、国民学校など制度の変遷とともに名称を変えてきた。校庭拡張、校舎増築ほか施設機能の充実発展の歩みを進めている。2007年現在19学級、児童数522人。卒業生数は10,760人。校庭の榎(えのき)は歴史を語る象徴的存在。
 

○ま 「町(まち)の守(まも)りは 消防団(しょうぼうだん)」     消防団十二分団

消防団は法律に基づく消防機関で、地域有志のボランティア的性格が強い。地域を火災やあらゆる災害から守るため、ポンプ操法訓練に励むなど常時献身的活動をしている。3つの部で構成され定員62人。消防車を備える詰所が亀里町矢島・鶴光路町・力丸町にある。
 

○み 「弥陀(みだ)の絵(え)板碑(いたび) 乗(じょう)明院(みょういん)」      乗明院

天台宗の寺。開基は平安時代9世紀の慈覚大師円仁と伝える。本尊は釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)。境内にある「阿弥陀三尊画像(がぞう)板碑(いたび)」は南北朝時代1280年作で流麗な線描が貴重。室町時代1378年造立の「廃覚動寺(はいかくどうじ)宝塔(ほうとう)」は類例のない個性的造形。2つとも市指定重要文化財。〔公田町〕
 

○む 「昔(むかし)は舟(ふな)戸(ど) 今(いま)ヘリポート」     群馬ヘリポート

1995~98年造成の下川淵工業団地内に1988年に開港した県有施設。公共用ヘリポートでは全国5番目の供用となった。利用目的は、警察・救護、遊覧・観光、測量・調査、視察、空輸、撮影など。舟戸は昔の小字(こあざ)名で利根川の舟の発着にちなんでいる。〔下阿内町〕
 

○め 「メーンは物流(ぶつりゅう) トラック団地(だんち)」 力丸工業団地

1972~75年、農地だった区域に造成された。面積は25ヘクタール。そのうちほぼ半分を前橋トラック事業協同組合による前橋力丸流通センターが占め、残る半分は各種製造業などの中堅企業が多く立地している。地元では「トラック団地」と呼びならされている。〔力丸町〕
 

○も 「持田(もちだ)十段(じゅうだん) 郷土(きょうど)の誇(ほこ)り」      持田盛二

鶴光路町出身の剣道家(1885~1974)。法神流免許皆伝の父持田善作に剣道を学ぶ。武術教員養成所卒業後は剣道助手に。京都府警、武道専門学校などで教え、42歳で剣道界最高の称号「剣道範士(はんし)」を受けた。1929年天覧武道大会優勝。県武道館跡に頌(しょう)徳(とく)碑がある。
 

○や 「屋根(やね)にやぐらの 養蚕(ようさん)農家(のうか)  」 養蚕農家

この地域の農業の特徴を「米麦(べいばく)養蚕」と表していた時期があった。水田の稲、裏作の麦、桑栽培による養蚕である。養蚕は有利な現金収入源だった。屋根に換気用やぐらを載せた大きな家は、広く普及した住居・蚕室兼用の養蚕農家建築で養蚕全盛時代を物語っている。


○ゆ 「夢(ゆめ)を発信(はっしん) 産(さん)技(ぎ)センター」      産業技術センター

2004年、地区内に新設された県内企業の振興のための県立施設。 技術支援、開発研究、情報収集を業務の3本柱としている。技術相談や依頼分析・試験、人材育成、プロジェクト研究、個別研究、支援成果のデータベース化、各種情報発信などを行う。〔亀里町寺家〕
 

○よ 「要路(ようろ)一本(いっぽん) 玉村(たまむら)線(せん)」  前橋玉村線

前橋駅西―玉村町間を結んで、地区をほぼ南北に縦断する道路。1934年の開通以前は曲線の多い狭い道で馬車通行の時代もあった。近年の主要地方道高崎駒形線、同前橋長瀞線バイパスほかの新設で交通網は一変したが、それ以前は地区内随一の最重要幹線だった。
 

○ら 「雷鳴(らいめい)とどろく 米(こめ)どころ」        米どころ  

昔から田場(たば)と言われ畑よりも田が多く稲作が盛んだった。1950年代以降の土地改良事業により、トラクター、コンバインほか大型農業機械導入などで栽培技術が飛躍的に高度化した。今も市内有数の米どころである。2006年現在の地区内水稲総作付面積は183ヘクタール。
 

○り 「『力丸(りきまる)』『宿阿内(しゅこうち)』 城(しろ)の跡(あと)」      古城の跡

力丸城は那波(なわ)氏一族の居城。宿阿内城は関東管領上杉顕定らとの関係が推定されている。各14、15世紀の築城。遺構はほとんど失われたが、宿阿内城は保存のため土地改良工事を除外した部分が残る。研究者作成の城郭平面図は貴重な参考資料。〔力丸町・亀里町阿内宿〕
 

○る 「ルーツは旅人(たびびと) 四体(よたい)さま」       四体大明神

神社創建は明治時代以後のこと。伝えられている由緒がある。――ある土地の所有者や耕作者など関係する人々に災厄が多発した。占ったところ、その土地内での4人の六部(ろくぶ)(巡礼者)の非業の死による祟(たた)りであると出た。村人はそこに石宮を建てて祭った。〔房丸町〕
 

○れ 「歴史(れきし)教育(きょういく) 峯岸(みねぎし)米造(よねぞう)」        峯岸米造

力丸町生まれ(1890~1957)。14歳で小学校教員検定試験に合格し16歳で小学校長に就任する俊才だった。東京高等師範学校卒業後、師範学校などの教師を経て、母校東京高師の歴史担当教授として活躍した。全国の中学校・師範学校用の歴史教科書の著書多数。
 

○ろ 「老若(ろうにゃく)つなぐ 年中行事(ねんちゅうぎょうじ) 」      年中行事

年間の時節の移ろいのなか、家庭や地域で習俗として行われるのが年中行事。季節感、人々との一体感などをとおして生活に彩りや潤いをもたらす。世代から世代へと受け継がれるが、時流に伴う変化もある。夏の行事「農休み」は過去のもの、「納涼祭」は今盛ん。
 

○わ 「わせだ緑地(りょくち)は いこいの広場(ひろば) 」  わせだ緑地公園

地域開発に伴って設けられた公共緑地3.5ヘクタールを公園に準じた機能を持つものにと、地区内各種団体代表者による建設準備会を組織し施設整備構想に参画した。2006年開園。地区組織の公園愛護会や花壇を育てる有志グループが住民参加で管理の一端をも担っている。

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更新日:2021年01月06日