下川淵カルタ あ行(「あ」から「お」)

読み札(解説付き)

あ 「安産願って 七(なな)観音」 矢島七観音

かつて石川山西福院多門寺という極楽寺の末寺であった。多門寺は極楽寺の隠居寺として、年老いて寺の勤めができなくなった僧が余生を送ったところであったが、明治新政府による神仏分離政策(廃仏毀釈)により、明治初期に廃寺となった。寺に安置されていた七観音像は、廃寺後もこの観音堂に祀られてきた。

七観音は、千手観世音・馬頭観世音・十一面観世音・子安(こやす)観世音・聖(しょう)観世音・如意輪(にょいりん)観世音・不空羂索(ふくうけんさく)観世音で、安産、子育てに霊験あらたかと受け伝えられている。毎年2月17日とお盆の8月17日が縁日。縁日には隣接する公民館で、多門寺に伝わる裏曼陀羅(うらまんだら・十王図)の掛軸を見ることができる。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。安産願って七観音

い 「一光三尊 善光寺」 善光寺

雲上山佛上院善光寺は鶴光路町にある天台宗の寺。『上野国郡村誌』は平安時代初め大同2年(807)伝教大師最澄の開基創建と伝える。また『下川淵村誌』には聖徳太子が仏法興隆のため四十六願の本誓をたて、全国に四十六の如来の道場を建てられたうちの一つが本寺、との記述もある。本尊は阿弥陀如来。舟形光背の前に、阿弥陀如来を中心に向かって右に観音菩薩、左に勢至(せいし)菩薩が立つ一光三尊阿弥陀如来像である。長く秘仏とされたが、平成18年(2006)の修復を機に公開されている。

境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は江戸時代半ば元文4年(1739)の建立。高遠(たかとう)の石工守屋七朗兵衛利常の作。共同墓地には、「昭和の剣聖」持田盛二(もりじ)の父で剣道の師であった持田善作の墓がある。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
一光三尊善行寺

う 「海はすぐそこ 北関道」 北関東自動車道

北関東自動車道は、高崎市内で関越自動車道から分岐し、群馬・栃木・茨城の主要都市を経由して、ひたちなか市に至る全長約150kmの高速自動車国道です。平成23年(2011)3月19日、全線開通しました。
東北自動車道、常磐自動車道と連結して円滑な交通ネットワークを形成し、地域間の移動時間が半分以下に短縮された事により物流効率が高まり、群馬県の新たな大動脈として、沿線の産業の発展を促す大きな役割を果たしています。前橋南インター周辺は住宅建設が進み、大型スーパーや多数の店舗が集まり巨大ショッピングモールが形成されました。

北関道と市道が交差するカルバート壁面には、下川淵小学校と第七中学校の児童・生徒の参加により赤城山や動植物などの絵が描かれています。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
海はすぐそこ北関道

え 「栄光しのぶ 屋敷濠」 屋敷吏(やしきぼり)

下川淵地区には昔、広大な屋敷の周囲に濠(ほり)をめぐらせた家が多くありました。江戸時代以前からのもので地域の支配的地位にある有力者の屋敷でした。環濠は防衛手段としてだけではなく、屋敷の湿気防止、日常用水、灌漑用水など、さまざまな目的を持っていました。後世に多くが無用として埋められ消滅しましたが、地区内で唯一、昔のままの環濠の姿を「持田孫平治宅地」に見ることができます。昔は、善光寺や小学校にかけた一帯が二重の濠をめぐらせた回字形になっていましたが、今は外濠が埋められています。屋敷濠は側面が素掘りのため、土が削られ底に積り、毎年濠さらいを行わなければなりませんでした。昭和50年(1977)頃までその作業は行われていました。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
栄光しのぶ屋敷濠

お 「お宮やお堂に 手を合わせ」 各町に点在

下川淵地区には、かつて寺院が9ありましたが、公田町の県道高崎駒形線にあった覚動寺は昭和47年(1972)利根川に架かった昭和大橋により乗明院に合併、そのほかの原因による合併や焼失により廃寺になるなど、現存する寺院は5となっています。

このほかの小規模なお堂について、新堀町の観音堂は土地改良事業の整備により、昭和49年(1974)にカルタの読み札「野道にたたずむ 石仏」の地に移転しました。また徳丸町の不動堂は町内を東西に横断する北関東自動車道建設の収用により、平成12年(2000)に町公民館の敷地内に移転しました。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
お宮お堂に手を合わせ

 

この記事に関する
お問い合わせ先

更新日:2021年01月07日