下川淵カルタ さ行(「さ」から「そ」)

読み札(解説付き)

さ 三丸の守護 飯玉神社 飯玉神社

  飯玉神社は、戦国時代応仁年間(1467~69年)に雨続きで困窮した力丸の村民が相談して、衣食住の祖神「飯玉大明神」を伊勢崎市堀口鎮座の飯玉神社より勧請奉斎(かんじょうほうさい)されたと伝えられる由緒ある神社です。昭和29年(1954)3月31日昭和の大合併以前は旧勢多郡下川淵村大字力丸字飯玉、同4月1日合併後は前橋市力丸町字飯玉、さらに昭和46・47年(1971・1972)土地改良後は15字を廃止し町名変更した力丸町に鎮座しています。

  「三丸の守護」とは村当時の大字力丸・大字徳丸・大字房丸(ぼうまる)の通称三丸に所在していた各社が、明治末期の神社合祀政策により合併したことによるものです。

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三丸の守護飯玉神社

し 「縄文土器の 徳丸仲田(とくまるなかだ)」 徳丸仲田遺跡

この土器は、北関東自動車道(平成13年高崎―伊勢崎間が開通)の建設工事に先立つ、建設予定地の発掘調査中に出土しました。発掘調査の行われた藤川右岸一帯は、小字名をつけ「徳丸仲田遺跡」と命名されました。

出土した土器片を復元してみると、口径26cm、高さ29cmの隆起線文(りゅうきせんもん)系土器で、縄文時代で最も古い草創期の約1万2,000年前に作られたものであることがわかりました。これは日本に土器が出現したころの最も古い時代のものであり、県内でも出土例の少ない貴重なものです。

土器片が出土した微高地と呼ばれる低い丘からは、住居跡が発掘され多数の石器も出土しています。この遺跡から、下川淵に古代から人々が暮らしていたことがわかります。
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縄文土器の徳丸仲田

す 「姿ゆうゆう 赤城山」           赤城山

下川淵地区は西南から北東に連なる山容の変化に富んだ景観に恵まれ、とりわけ赤城、榛名、妙義の上毛三山が際立っています。北には一番身近な赤城山1828mが長い裾野を持ち悠然とそびえ、どっしりと構えています。そのためにこの山への思いは格別で朝な夕なに山を眺め、時に天気や作物の豊凶を占い、また、合掌をして願いを伝えたことでしょう。

赤城の山、赤城嶺として地元の下川淵小学校と第七中学校の校歌の一節にも歌われ、地域の人々にも親しまれています。
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姿ゆうゆう赤城山

せ 「千手観音 善昌禅寺」        善昌禅寺

下川淵村大字力丸字本郷(現前橋市力丸町)、臨済宗で佐波郡名和村芝(現伊勢崎市柴町)泉龍寺の末寺です。「下川淵村郷土誌」によると、泉龍寺47世実庵玄参開基、那波式部少輔大江宗広創建とあります。山号は降龍山、寺名を善昌寺といい室町時代の初期、応永14年(1407)11月に那波氏一族の力丸城の裏鬼門除けの寺として、西南の地に創建されました。寺名は城主・大江宗広公の号“善昌”に由来しています。

山門(薬医門)を入ってすぐ左手(力丸城の裏鬼門に当たる境内)の、さらに裏鬼門の方角に高い石積基台の上に「千手観音像」が立っています。昭和7年(1932)に建立したコンクリートの立像で、平尾良徳(りょうとく)現住職の祖父寛英(かんえい)和尚が夢枕に出た観音像を素人ながら1年を費やして完成しました。
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千手観音善昌禅寺

そ 「そろって出かける 運動会」        市民運動会

地区運動会は下川淵の3大イベント(トライアングルフェスタ・運動会・文化祭)の一つです。昭和46年(1971)10月10日に第1回が下川淵小学校の校庭で開催されました。かつての運動会は「ハレの日」でした。家族全員で出かけ、観客も出場者も気持ちを一つにし、町別対抗競技には応援に熱が入ります。お昼には持参したお弁当をひろげ、隣近所の人とおしゃべりを楽しみながら食べます。

運動会の初期のころは競走するような種目が多くありましたが、近年はみんなが参加できて危険がないようなレクレーション的なものが増えていきました。運動会ほど自分の住む町を意識することはありません。運動会後の各町の打ち上げも勝っても負けても盛り上がります。
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そろって出かける運動会

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更新日:2021年01月07日