下川淵カルタ な行(「な」から「の」)

読み札(解説付き)

な 「並ぶ大橋  『昭和』と『横手』」   利根川の大橋

  昭和大橋は、利根川に架けられた下川淵地区最初の橋です。公田町と対岸の高崎市萩原町を結ぶ県道27号高崎駒形線にあり、長さ205m、幅9.75m、昭和47年(1972)9月に開通しました。これにより約150m上流にあった「公田の渡し」は廃止されました。当初2車線でしたが、昭和61年(1986)上流側に駒形方面行専用の新橋ができ4車線となりました。

横手大橋は昭和大橋の約1キロメートル下流にあります。平成13年(2001)3月に開通し、長さ284m、幅23.8m、横手町と高崎市宿横手町を結ぶ県道13号前橋長瀞線バイパスに架かる4車線の橋です。下流側には並走する形で同時期に開通した北関東自動車道の利根川橋があります。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
並ぶ大橋昭和と横手

に 「新堀西は 花の町 」 新堀西団地

新しい町、新堀西は平成10年(1998)から総数375戸の予定で住宅開発が始まり、同12年から入居も始まりました。平成19年にはほぼ入居が終わり、人口約1200人のニュータウンが完成しました。開発業者大和ハウス工業は「ハーバルガーデン前橋」をキャッチフレーズとし、開発にあたっては景観を重視、寛ぎ、憩える空間づくりがコンセプトで敷地の境界には塀がありません。庭にはハーブや草花が植えられ、百十紅(サルスベリ)の並木がメインストリートを飾るなど特色のある花のまちが誕生しました。
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新堀西は花のまち

ぬ 「ぬくもりの心 石の塔」  亀里町阿内宿の石幢(せきどう)

この石幢は、平成7年(1995)前橋市の重要文化財に指定されました。その時建てられた説明板が近くにありますのでご一読ください。

―石幢と銘文の語句の補足説明―

幢 幡:幢、幡(ばん)ともに旗のこと。仏堂内の荘厳(しょうごん)具の一種。
龕 部:龕(がん)は仏像などを納めるための、厨子や壁面を彫りこんだ棚。
六地蔵:仏教でいう六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)において衆生の苦しみを救う六種の地蔵菩薩のこと。
輪廻思想:車輪の回転のように、人が迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。
時 正:時正(じしょう)とは昼夜等分の意。春・秋の彼岸の中日。また、彼岸の七日間をいう。

近くに宿阿内(しゅこうち)城趾があります。年代も近く、『下川淵村誌』は石幢と城主とに何らかの関係があったのではないか、としています。
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ぬくもりの心石の塔

ね 「根付いて百年 安来節」 横手の安来節

安来節は島根県安来地方の民謡。「どじょうすくい」の踊りで有名。大正時代に東京浅草に進出し全国的に流行した。このころ横手町を訪れた旅芸人が、手厚くもてなされたお礼にと安来節を伝授し、芸達者な2人の若者青木菊次郎、青木助國(すけくに)が浅草に通って本格的に習い覚えた。

菊次郎はボケさん踊りを、助國は唄いを担当した。2人は本場の安来節にはない田植え作業を織り込んだ、田植え踊りを加えた「横手安来節」を編み出した。田植え踊りは美しい着物姿の早乙女(すーとめ・方言)が、姉さんかぶりにたすき掛けで踊り、ボケと絡む仕草がユーモラスで笑いを誘う。

安来節は地域の伝統芸能として、弥生組という住民有志の会によって横手町の夏祭りや下川淵地区の文化祭で演じられてきたが、平成18年(2006)伝承100年を機に「横手芸能保存会」が発足した。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
根ついて百年安来節


の 「野道にたたずむ 石仏」 道祖神・野仏

下川淵地区内の路傍にはかつて神仏が祀られていましたが、昭和40年代の土地改良事業により古い道は姿を消し、集落部に面影を残すことになり多くは神社や寺院に移され保存崇められています。地区内の古道は南北縦貫の中央に前橋八幡山道(前橋玉村線)、西に前橋町-ぬで島-公田-横手の前橋道、東に力丸-徳丸-房丸-宮地-前橋町の前橋道と3本でした。鶴光路町の下川淵村道路元標に隣接する石造の道標に、北は「うまや橋(厩橋)」。東は「いせさき(伊勢崎)」へ向かう伊勢崎道で、力丸を通って佐波郡上陽村藤川から同飯塚、そして伊勢崎町へ通じていました。

神仏が祀られた場所は辻や橋の袂などが多く、村の内外を区分する境として、あるいは現世と他界が交錯する場所として意識する場所でもありました。
◇詳しくは「下川淵カルタ」ブックレットをお読みください。
野道にたたずむ石仏

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更新日:2021年01月07日