下川淵カルタ ら行(「ら」から「ろ」)

読み札(解説付き)

ら 「雷鳴とどろく 米どころ」        米どころ  

下川淵地区は平坦地に広がる水田が、群馬県特有の長い日照時間と豊かな水と、粘土質の土壌により古くから稲作が盛んでした。

昭和40年代に行われた土地改良事業により、機械化を阻んできた不規則な形の田や狭く曲がりくねった道が、広い四角な田と真直ぐな農道や用排水路に整備され、ライスセンターや大型農業機械の導入によって農業の近代化が促進されました。同時に交通網も整備され、大型住宅団地や工業団地が造成され、近年は高速道路のインターチェンジに付随する大型商業施設も進出しました。農業地帯だったこの地区も、時代の推移とともに農地も減少の一途をたどり、昭和27年(1952)には約355haあった水田の作付面積は、平成18年(2006)には183ha、平成27年(2017)には155haにまで減っています。担い手の高齢化による農業経営の危機が心配されるなか、いつまでも豊かな水田地帯であってほしいと願っています。
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雷鳴とどろくく米どころ

り 「『力丸』『宿阿内(しゅこうち)』 城の跡」      古城の跡

下川淵地区には力丸城、宿阿内城(阿内城ともいう)、新堀城という3つの城があり、それぞれ14~16世紀に築かれた。

力丸城は貞治6年(1367)に那波(なわ)氏一族の大江宗広が築いたといわれる。環濠宅地をまとめた自然発生的な城で、現在城郭跡は残されていない。

宿阿内城は亀里町阿内宿の端気川右岸にあった。関東管領上杉顕定(あきさだ)が、文明9年(1477)長尾景春(かげはる)の乱で武蔵国五十子(いかっこ・現埼玉県本庄市)の陣を追われ、一時この城に避難したと伝えられている。城跡の地形保存のため、土地改良事業の対象外となった。女体神社参道前の東西にのびる直線の通りは馬場の跡といわれている。

新堀城は利根川と西川との間にあり、永禄9年(1566)高崎に拠点を置く和田氏によって築かれた。度重なる利根川の氾濫により埋められて、遺構は確認できない。
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力丸宿阿内城の跡

る 「ルーツは旅人 四体(よたい)さま」       四体大明神

四体さまの由緒について『下川淵村誌』はおおよそ次のように記しています。

房丸町は中央に耕地を挟み東西に集落があり、それぞれ東房丸、西房丸と呼びます。その西房丸のある土地で、どうしたことか地主などこの土地に関係する人が次々と病気や災難に見舞われました。そこで原因を占ってもらった結果、かつて4人の六部(ろくぶ) *がこの土地で生き埋めにされ、その霊が浮かばれず祟るのだと出ました。村人は協議をし、この土地に石宮を建て霊を祀り、境内地に桜や松を植えて盛んに祭礼を行ったところ評判となり、近隣から大勢の人が集まりました。

やがて祭礼も下火となり大正7年(1918)には廃止しましたが、現在でも西房丸の人たちが鳥居や幟を作って手厚く祀っています。
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*六部 諸国の社寺を巡拝する行者。本来死後の冥福を祈るものだったが、江戸時代には物見遊山を兼ねたものとして流行した。
ルーツは旅人四体さま

れ 「歴史教育 峯岸米造」        峯岸米造

米蔵は明治3年(1870)力丸町に生まれました。14歳で教員検定試験に合格し、16歳で小学校長に就任する俊才でした。東京高等師範学校(筑波大学の前身)卒業後、師範学校などの教師を経て 母校東京高等師範学校の教授として約40年間活躍をしました。全国の中学校(今日の高校)や師範学校(同大学)用の歴史教科書を編纂しその数は50冊を超えていました。

小学校では飛び級を2回した、勉強がよくできて先生を困らせた、楫取素彦(かとりもとひこ)県令(知事)の比較試験で抜群の成績を収めるなど異色の秀才ぶりを発揮する姿は枚挙にいとまがありません。終戦直後の昭和22年、力丸町への疎開中に死去76歳でした。
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歴史教育峯岸米造

ろ 「老若(ろうにゃく)つなぐ 年中行事(ねんちゅうぎょうじ) 」      年中行事

下川淵地区の主要な年中行事には5月のトライアングルフェスタ、10月の運動会、11月の文化祭をあげることができます。ここには老若男女が参加、1000人規模の大行事となっています。それ以外にも公民館を中心とした行事、地域での伝統行事など多様な活動が展開されています。これらの行事は学習の場であり、芸術、文化、スポーツの発表の場でもあり、旧交を温める場でもあります。高齢化、核家族化という社会背景の中で特に高齢者と若者や子供との三世代交流が意図的に組み込まれるとともに、しめ縄づくり、いも堀体験、竹馬や竹トンボなどの昔遊び体験を通じて子供たちを楽しませることも重点のひとつとなっています。

かつて農業が盛んな時代、家族は三世代同居が普通でその延長線上に年中行事はあり、娯楽的な色彩が強く、絆を強める場でもありました。時代の変化、特に生活様式の変化に伴い年中行事の内容も大きく変貌しています。
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老若つなぐ年中行事

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更新日:2021年01月07日