秋元公が今も愛される5つの理由

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの翌年、総社藩主となった秋元長朝公は、総社に天狗岩用水を造成するなど、400年以上経った今でも地域住民に敬慕されています。また転封されたあとも、秋元公は代々総社領民のことを気にかけておりました。そんな秋元公について、さらに知っていただきたく、「秋元公が“今も”愛される5つの理由」を作成しました。

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秋元長朝と天狗岩用水

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの翌年、総社藩主となった秋元長朝は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。
長朝は総社藩の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井藩に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。
そこで、白井藩主の本多氏の許しを得るために、高崎藩主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井藩につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。
知行高が6千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、3年間年貢を取り立てないことにして、慶長7年(1602年)の春に用水工事に取りかかりました。
工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。
長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々に言いました。
「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」
人々は半信半疑(はんしんはんぎ)でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。
この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。
長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、3年の年月をかけて慶長9年(1604年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社藩は6千石から1万石の豊かな土地になりました。
秋元氏は長朝の子である泰朝のときに、甲州谷村(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社藩の領民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長9年より172年後の安永5年(1776年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力めて愛を遺せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕(した)っていたかを示すものといえましょう。
封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

出典、参考文献

「天狗岩堰用水史」天狗岩堰土地改良区/「前橋の文化財」前橋市教育委員会

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更新日:2019年02月01日