第2回前橋市歴史的風致維持向上協議会

審議会名

歴史的風致維持向上協議会

会議名

第2回前橋市歴史的風致維持向上協議会

日時

令和3年6月4日(金曜日)13時58分~15時37分

場所

前橋市本庁舎11階南会議室

出席者

委員

手島会長、戸所副会長、村田副会長、大塚委員、西尾委員、星委員、堀込委員、平石委員、金井委員、藤井委員

オブザーバー

村田技師(群馬県都市計画課まちづくり室)、笹澤主幹(群馬県文化財保護課)、稲垣まちづくり推進チーム長(前橋商工会議所産業政策部)

事務局(都市計画課)

宇田都市計画課長、高瀬課長補佐、原澤副主幹、石井主事

歴史まちづくり推進委員会委員・WGメンバー

田中参事、大友副参事、大島主任(以上、文化国際課)、上野課長、須藤補佐、小川副主幹(以上、文化財保護課)

欠席者

後藤委員、日下田委員

議題

1 計画書案(第1章・第2章)について

2 重点区域について

配布資料

会議の内容

1 開会

新規就任の委員紹介、スケジュール確認等

2 議事

(1) 計画書案(第1章・第2章)について

事務局より、資料に基づき説明があった。

(1)に係る質疑応答

(戸所副会長)

ここまでまとめるのは大変だったと思うが、国の方から要件等について強く指摘されたことで、それをクローズアップするために、歴史的資源それぞれの関連性が見えず、さらに、全体の流れや相互関係、地域のアイデンティティが見えない。

1章の場合、前橋市の統計が挙げられ、次に歴史の記述があるが、その間をつなぐ関係が見えない。

前橋が都市として発展してきているが、その元はなんなのか。総社の例だと、国府、国分寺がおかれ、古代からの全国的な交流空間化の中で、大国になっている。2章で述べることに関する全体の構造、それを、可能であれば全国スケールからどのような所なのか、関東信越から見てどのような所なのか、県内でみてどのような所なのか、そして、前橋の中でどうなのかを1章で示すことが必要なのではないか。

立体的に、構造的に見えるようにすると良いのでは、と感じる。その記述により、2章がよく理解できるようになる。

現時点では、全体が並列的に流されている。どうしてこういう風土が成り立つか、歴史的風致の特性が全体として見えてくるようにするとよい。

(手島会長)

戸所副会長の言われることはよく理解できる。事務局がこれからまとめていく上で、先生の著書や論文中に書かれているのではないかと感じている。参考になるものがあれば、事務局にご提供いただけるとありがたい。

(村田副会長)

戸所副会長が言われたとおりかと思う。

甘楽町もだいぶ前に、計画を出しているが、ここも最初、東山道から入っている。全国的な位置づけとなると、東山道から入って、群馬県の国分寺もあれだけ60メートル近い塔が立ったというのも全国ではないわけである。

やはり、全国的な位置づけというのが必要かなと思う。

2章の中で扱っているから、1章で扱っていないという事務局の説明があったが、ただ1章では、背景的な記述をせざるを得ないのではないか。それがないので、なんとなく唐突に2章が出てくるような印象を受ける。

例えば、まつりで言えば、「前橋の山車と屋台」が刊行され、前橋市内のすべての山車の調査もできている。関東全体の利根川流域における山車の流れの中で、前橋がどのような位置づけかというのも書籍に掲載されている。

そのようなものを参考にすると、まつりにおける山車の巡行であるとか、総社神社の山車と流鏑馬などの話にも結び付いてくると思う。

国の指示なのかもしれないが、ある程度背景的なことには触れておかないと、初めて読む人からすると、2章に入りづらい。1章はあくまで2章の背景を記述するものであろうから、その辺りは入れてもらっていいのかなと思う。

(手島会長)

今、お二人からご指摘があったが、1章にかかわらず、2章も併せてお気づきの点があれば、お聞かせ願いたい。

(星委員)

加えるという部分でお話をすれば、「前橋らしさ」というものを、特に最初の方で言及すべきだ。1章から読み取ろうとしてもなかなかわからない。

例えば、商業など、ここまで書く必要があるのか。現状を分析するための計画書ではないのだから、簡単にまとめた方が、言いたいことに直接結びつくのではないかと思う。

(西尾委員)

戸所副会長からお話のあった、都市基盤のアイデンティティをどのように浮かび上がらせるか、という観点が必要なのではないかと感じている。

(大塚委員)

総社町について、戸所副会長との会話の中で、総社の歴史を語る中で、おおもとをたどると、国分寺からの流れ、つまり東国文化にたどり着く。そこから総社が生まれてくると言った話を、地元の年配者はよくする。

まさに、今の議論にたどり着くのではないか。ぜひ、総社の位置づけについては、そのような落とし込みをお願いしたい。それにより、我々のような現代人が、歴史が体で覚えられるようになると思う。

(堀込委員)

非常によく調べられていると思う。

(手島会長)

これからまとめに向かっていくが、戸所副会長のご指摘にもあるとおり、合併区域を含め、かなり広域的な観点からの記述が必要となる。場合によっては、他自治体の事例などを見て、圧縮しても大丈夫な部分もあるのか。

(事務局(高瀬課長補佐))

それは問題ない。

(手島会長)

市勢要覧を作成するのではないのだから、焦点を絞ってもよいのではないか。

また、それと同時に、古代からそれぞれの地域の歴史はあるものの、多様で、どこの地域も、それを一本貫くものはないと思う。

例えば、全国を見た中で、金沢市などは、加賀百万石に集約している。概論ではもちろん言うが、最後は一本に絞ってやっていっている。

前橋は、求心性がないが、全国の平均的な都市ではある。そこで、何をもってアイデンティティというのか。そこをそれぞれの委員さんからご提案いただいて、ある程度の合意ができれば、肉付けをしていく方向になるかと思っている。

(戸所副会長)

関西など他都市の人々が前橋を見るときに、姫路における酒井家の関連で、前橋は非常に大藩で、でんと構えていると思っている人々が多い。

ただ、実際のところ、北関東は、親藩、譜代、天領がかなり入り組んでいる。

前橋についても、利根西、利根東で、総社城と前橋城で違っている。

例えば総社城のことを紹介しても、前橋とどのような関係があるのかわからない人が多い。これは、構造的にわからないということである。

つまり、この地域のモザイク的な面がどのような構造で形成されてきたかという点を、簡単でよいから、1章で示していただくとよいと思う。

同時期に前橋四公が構えていたと思う人が多いと思うが、そうではないため、そのような時間的構造と空間的構造は、その後に続く計画書の記述を理解するためにも、わかるようにしていただきたい。

おそらく、国が言っている、「それぞれの要件に合致するように」との官僚的発想で行けば通ると思うが、これから計画書が進む中で、時間的構造と空間的構造がしっかりしていないと、理解しがたいまちづくりとなってしまう。

実は、前橋市民もよくわかっていない人が多いので、未来のことを書いていく中で、過去のことも理解できるようにすることで、歴まち法の求めているものが生きてくると思う。

(村田副会長)

2章以降に出てくる建造物や活動について、それに関する背景は全部書くべきなのであろう。なぜそのような街並みになったか、ということも、触れていないとまずいと思う。地元の人が見てもわからない。

要するに、新たに復元するとか、移築するとかしない限り、建造物と街並みは残ったものしかないのである。そのことを、なぜ残ったのか、その理由を述べた方がよい。2章にあるから1章に載せないというのには疑問に感じる。

また、例えば総社山王の養蚕住宅についても、前橋市が緊急雇用による調査を行っている。その中でも、Aランクの建物数が多かったのが総社なのである。前橋の中で養蚕住宅の話は総社ですればよいというのは、我々専門家にはわかるが、なぜ総社なのか、他にもあるではないか、と思う人もいるわけである。

それを援護するのが、江戸時代における、養蚕が何を意味していたか、である。

塩原蚕種についても、あくまで蚕種製造農家で、一般の養蚕農家は繭製造農家という違いがあり、我々専門家は分けて考えている。ただ、塩原がなぜその場所で発達したかということになると、利根川の沿岸だからという理由で、境島村も含めて河岸以外には蚕種屋はない。

このような、大きな意味での記述ができてくると、なぜ総社で養蚕農家が栄えて、すごかったのだ、ということがわかってくるのはないか。

現在残っている建物も、近現代のものが多い。そのため、今後充実させていくであろう、近現代についての記述も、そのような街並みに関連した背景を書いていく必要があるのではないかと感じている。

広瀬川についても、美観活動などの記述があるが、基本的には十数年前までは、撚糸工場の組合があって、何十社も存在していた。現在もそのことは生きており、それが製糸から変わってきたという流れもある。それが抜けてしまって、河川愛護のような活動に集約しているので、少し違和感がある。

「美しいまち」というのであれば、生糸のまちから来ている、という視点がどこかでほしい。

具体的に残っている遺物などを説明していき、その中で我々が、補助金をもらって直していく対象を決めていくのであるから、関連性を説明していく必要があると強く感じている。

(大塚委員)

実は総社の歴史は、古代の歴史が1つあり、また、江戸からの流れの養蚕文化、この2つに分かれるが、その点について2章で網羅してもらっていると思う。

今日の話で、そこを1章で出していくとすると、一番古い寺だと言われている放光寺(山王廃寺)を出して、群馬県全体を位置づけて、国司と言われる国分寺や宝塔山や蛇穴山など、総社にしか残っていないものを載せていく。そうしていくと、群馬の落としどころがきちんとでてくると思う。

(手島会長)

総社を見る際に、私は、宿場の町場と、山王の農村部があると考えるが。

(大塚委員)

その間に、光巌寺と元景寺がある。また、町家文化が大渡橋から渡って、上越線までにある。間口が狭くて奥が長いという特徴があり、一軒ごとにすべて名前が異なる。総社を細かく分ければ、3つに分けられると言える。

(手島会長)

古代から、現在から、それぞれ見方があるが、総社のアイデンティティとは何なのか、候補を挙げていただくと、事務局もこれから作業がしやすい。私がいつも感じていることであるが、確かに三省協議でクリアすることも大切であるが、認定後に全国に公表されるわけである。

全国の人が見た際に、「何だ、こんな計画書か」とはならないようにしたい。そうすると、国の要件がクリアできる記述と、前橋のアイデンティティの記述、両方を満たさなければならない。

歴まち法は、重点区域や現代的視点からまとめていって、絞らなければならない。その際に、古代から始まって冗漫な記述になってしまうと、戸所副会長や村田副会長がおっしゃったように、視点がぶれてしまう。

歴まち法で、重点区域が重要なのだとすれば、そこを基にしてアイデンティティを明確にして、計画書の他の章につなげていく必要があるが、そこが明確にならないと、事務局の作業も難航する。

(戸所副会長)

国の要件との関連をどのように考えるか、である。

総社の今の構造は江戸時代からで、大渡橋から天狗岩用水までが町場である。給人屋敷という字名が残っている。

総社山王は、当時の総社の城下町を支える、今でいえば工業団地の農業版のような所であった。今も農地が残っている。それを前橋市は、工業団地化してきた。

その辺りの構造の中で、城下町時代をアイデンティティとし、そこから遡って古墳がある、とするのか、どこを中心としてクローズアップするのかも考える必要がある。重点区域の要件との関係で、国指定史跡の存在を考慮すると、城下町を中心にすることが可能かどうかを考えなければならない。

その辺りがうまくクリアできれば、一番クローズアップできるところにポイントを当てて、市民が動けるようにするのも、まちづくりの観点から考えて妥当性がある。

金沢市は、加賀百万石から来ているが、小京都会議では、自分たちは京都の公家文化ではなく武家文化である、といったアイデンティティがある。

そういう意味では、やはり1章に、なぜそうなのか、といった記述が欲しい。

(手島会長)

例えば、前橋のアイデンティティの候補として挙げていただけると、事務局も参考になるが。

(戸所副会長)

他市と違う部分、例えば高崎と異なる部分が、いくつか転換期があったという点である。

まず一つは、国府があったこと。

次は、江戸時代になると、関東の華、つまり、江戸を北から護る土地であったこと。京都と比較すると80キロメートル~100キロメートルにある姫路、江戸から80キロメートル~100キロメートルの前橋といった対比が可能で、酒井家は両方の土地にいた。

また、明治期は、養蚕を中心に伸びていくといった、生糸のまちとなった。

第2次世界大戦後は、前橋は焼け野原になった。今日の前橋は戦災復興土地区画整理以来、区画整理では全国的に成功した都市であると言える。

これらの伝統が、今日まで来ている。区画整理は人口が増えている場合はよいが、人口が減り出すと、文化財を壊して市街地を広げてしまう要因にもなる。

今また、転換期であるが、そういった状況では、高崎と比較して、官民が一体化して動いているように感じる。高崎は国に頼ることが多いが、前橋は今日の「めぶく。」といったように、民と連携して一から創っていく。これは焼け野原から復興した区画整理も民の協力なくしてできない。前橋城復興も、県庁誘致も、臨江閣建設も前橋町民の力、このような点が、前橋の特性なのではないか。

また、前橋は文化、学術そして医療にも秀でたものがあり、緑化も優れていたが、県民会館や県立図書館不要論が出ており、緑地形成も劣化してきているなど、全国的に見て文化力の低下が近年著しいと感じる。

歴まち法を活用して、どのようにこの流れを変えていくのか。過去、現在、未来の流れの中で、そこを基本において、個々の歴史的資源をどう生かせるか考えていく必要がある、と感じている。

(手島会長)

今後、三省に提案していく際に、前橋を知ってもらうためには、商業などの概要についてはある程度の記載の必要があるとして、次回までには、一番いい時代をポイントとして記述していく形でよいのではないか。萩市は幕末維新にポイントを当てているなどがよい例である。

前橋は県庁になって、生糸の都市で、民力が活力になったということであるから、その辺りをアイデンティティとして、古代から書き始める、といった形でよいのではないか。

(村田副会長)

ほとんど書き込んであると思うが、2章との関連で抜けていると思うのが、産業史についてである。産業史が入ってくれば良いのではないかと感じる。

例えば、農業史であれば、前橋でいつから養蚕が始まり、さらに明治時代では、塩原蚕種、蚕糸試験場が出てきて、などである。現在の記述は、俗に言う、一般史しかないので、そのように感じるのだと思う。私は産業史にこそ、アイデンティティが入ってくるのではないかと考えている。

前後の時代は均等に扱うことはできないので、産業史の記述によって、2章の中で「残っているもの」のアイデンティティが描けるのではないか。

農業史、工業史、商業史、例えば高崎が「お江戸見たけりゃ高崎田町」と言われたときに前橋はどうだったのかなどである。ただ、弱ければ書く必要はないが。

そういった内容が、一行か二行入ってくると、非常にわかりやすくなると思う。

また、観光についても、別の見方をすれば「民俗」とも言え、まつりの歴史もそこで書くことができる。

今ある記述もよく調べられており、国からの指示によるものもあると思う。それを削除する、ということではなく、産業史に配慮していくとわかりやすくなるということである。

(手島会長)

文章が現時点では未完成な、「近現代」の部分と、「関わりのある人物」のところで、アイデンティティ性のあるような要素を入れて、補うことで、ここまで読めば、「あぁ前橋がわかる」、というような形で、今までの意見も考慮しつつ、三省協議をクリアしていくといった進め方としたい。

その間、先生方の研究成果や参考文献があれば、事務局に指示いただきたい。

(2) 重点区域について

事務局より、資料に基づき説明があった。

【前回の村田副会長の質問に対する回答】

(質問)

認定都市の中で、どのくらい復元としての事業を実施しており、どの程度の補助金をもらっているのか。

(回答)

国交省に問い合わせたところ、回答としては、当時認定済の83都市中、復元を実施しているのは39都市、71事業であり、補助事業とすると、社会資本整備総合交付金の都市再生整備事業として地域交流センターや観光交流センターとして復元することは可能。なお、事業の目的や場所により、支援の可否が異なるため、個別に相談をしてほしいとのこと。

 

文化審議会文化財分科会による「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」についての紹介

(2)に係る質疑応答

(手島会長)

これまで、重点区域は「街なか」だけだったところを、「総社地区」も入れて、この2地区で進めるとの提案であるが、前回、戸所副会長からの提案もあり、進めていくということである。この点についてご意見をいただきたい。

特にご意見がないようであるが、重点区域については、きちんと総論から練り上げていく必要がある。先生方には、この2地区の共通性も含め、ご教示いただければありがたい。

(村田副会長)

前回復元の話をした関係で、甘楽町の楽山園でやったが、なかなか難しく、相当の根拠が必要となる。資料を見てもわかるが、きちんとした報告書が必要であったり、図面や写真が必要であったりする。甘楽町も本邸はできず、復元できたのは梅の茶屋や拾九間長屋などで、国の史跡のため、レベルが違うが、内容によっては、前橋では1ランク、2ランク下げた基準でできるのではないかと感じている。

もう一つは、移築復元(原)はどうか、という点である。

現在、沼田市で移築復原が進んでいる。私も関わっているが、まず旧沼田貯蓄銀行からスタートし、今、旧土岐家の移築を行っている。また、久米民之助、旧沼田教会の4棟をやっている。更には生方記念文庫があり、その延長線上にある沼田高校を登録有形文化財としている。

これは区画整理事業として行っているため、10年間くらいストップしていたが、今、すごい勢いで進んでいて、注目されている街並みづくりとなっている。

このような状況で前橋を見たときに、メインとなる県庁エリアで歴史的な建物といった場合、既設のものはあるものの、その中でもばら園にある蚕糸試験場事務棟(蚕糸記念館)がある。これを、壊してしまった県知事公舎、近県で知事公舎を壊しているのは群馬県だけであり、ありえないことであるが、そういった場所に、蚕糸記念館を持ってくるというのも一つの案である。

なくなったものを復元、というだけではなく、歴史的な建物で、前橋に関連がある建物を移築していく、という考え方があってもよい。

また、歴史的建造物、といったときに、蚕糸記念館だけに限るかといったことも議論した方がよいが、現在の空いている土地に移築すると、一つの核になると思う。

なお、沼田市の例で挙げた建造物は、すべて移築の建物で土着のものはない。

以上の点について、次回の協議会での提案をお願いしたい。

(西尾委員)

蚕糸記念館であるが、前橋商工会議所がかなり前から、市に対して移築の要望を行っている。場所の問題もあり、話が進まないが、これだけ「生糸のまち」と言われる都市であるのに、博物館のような施設がないのは寂しい気がする。

蚕糸記念館は、敷島公園の中に溶け込んでいるように見えるが、あそこまで足を延ばす人はあまりおらず、入館者数も決して多くない。中の展示物も、少しみじめな感じがするので、生糸のまちの象徴として、村田副会長からもお話があったが、知事公舎の跡地や前橋公園の中などに移築するのもいいのではないかと思う。

(村田副会長)

もう一つ言い忘れたが、今の「るなぱあく」の所に、波宜亭という建物があった。3階建で、萩原朔太郎を語る上では欠かせない建物である。これも復元で、文化財レベルではないが、「るなぱあく」の一角に造ってみるというだけでも、大変インパクトが出てくる。

(手島会長)

歴史まちづくり法は、これまで市民の方々からの様々な要望があるが実現ができなかったことを、前橋のまちづくり、デザインという観点から利用していくもので、事務局も重々承知で国との協議に臨むと思うが、その点も念頭に、今後も議論をお願いしたい。

また、国交省の職員は、それぞれの都市のことを熟知しているわけではないので、しっかりとした根拠がチェックされているようである。

なかでも、まつりなどの「営み」が重視されており、私も歴史の研究者として、生活史が軽んじられてきたと感じているが、なかなか記録が見つからないことが多い。

震災や空襲に遭わなかった街は、町衆が文書(もんじょ)等にまとめて、残っているものもあるが、前橋は空襲に遭ったり、政治的な変革でまつりが変わったり、途絶えたりしており、なかなか難しい。

50年の根拠として、上毛新聞が頼りになるのであるが、実は、上毛新聞は明治44年以前のものはないのである。明治44年からのものも萩原進先生が、県議会図書室長であったときに集めていたものが存在する。あとは、明治40年代が、県史編纂室で月夜野の櫛渕さんのところに、明治40~42年くらいのものがあった。それから20年代が、20、21年が北橘の今井善之助さんのところにあった、といったように、断続的に存在する。特に、30年代はほとんどない。

計画書案の記述を見ても、だるま市は大正時代や昭和となっているが、明治44年の上毛新聞の記事に掲載されているため、もう少し古くから行われていたことがわかる。

このような根拠は重要なので、新聞など、記録のような資料をお持ちの先生がいらっしゃれば、その掲載部分等について指摘をお願いしたい。計画書を作成する上で、大変役に立つし、作業もスムーズになり、ひいては、今後、全国に公開される上でも、前橋の品格につながる。是非、今後もご教示をお願いしたい。

(戸所副会長)

蚕糸記念館の移築についてであるが、そのようなお考えがあることは十分理解できるが、他方で、あまりにも群馬では、元にあった場所などを無視して、空いている場所に移築しても、ただあるだけのように感じてしまう。

地理学では、地域性は、歴史的慣性と地理的慣性が相まって生まれてくる。歴史的慣性というのは、あるものがずっと何らかの形で続いていることで、その広がりは、一定の空間でできている、というのが地理的慣性である。

それをどこかに移してしまうと、その慣性が切れてしまう。しっかりした街の場合、少々離れていても、それぞれがあった場所を大切にしながらネットワーク化している。そして、過去と現在を結んでいっている。

そこをしっかりしないと、根無し草のわけのわからない街になってしまう。新しいものを作っていくのはよいと思うが、かつてあったものは、できるだけそこに置いておくべきで、もし移すとなったら、空いている場所がある等の理由ではなく、しっかりとした根拠が必要である。

その点は、群馬県全体に言えることで、よく考えないと禍根を残すこともあるのではないか。十分議論していただきたい。

(村田副会長)

歴史的建造物に関しては、戸所副会長の言われた意見もあるのは承知している。

しかし、日本の歴史的建造物の保存の経過を見ると、実は、皆が無視してきたものを、ある時代になって突如「残しましょう」となることが多く、決まっているものではないのである。今、価値があると思っていても、昔は価値を見出していないものもある。

その意味では、何か特別な理由があって残した、というよりも、レガシーとなっているものや、直せなくて残したものが、偶然、その時代に人々が大切だと思って、歴史的建造物となっていることが多い。

私も、歴史的建造物はその場所で残せばよいと思っていた頃もあったが、長い期間古い建物を手掛けている中で、そうでもないのではないかと感じている。価値観は、我々専門家が決めているものであるが、本当にそれが正しい価値観なのか、ということである。

今、我々が注目しているもの以外でも、落としているものがたくさんあって、それも残っていかないであろう。例えば、「銭湯」は、日本の近代を語る際には重要なものであるが、指定を受けているものはほとんどない。

一般の人がどう思っているかという視点も重要で、一般の人に支持されないものは、その後も支持は得られない。

沼田市の場合も、区画整理であるから、歴史性がなくなってしまうが、街並みを整備する上で役に立つのであれば、という理由で私は賛成した。

戸所副会長の意見はもっともだと思うが、その後の活用の視点もあるのではないか。

また、前橋が博物館を持っていないというのも、これだけの県庁所在地では大変珍しい。この歴まちの中で、歴史的建造物を博物館として活用できないだろうか、新築ができないのであれば、改造をして博物館としてもいいのではないか、という展開があってもよいと思う。登録有形文化財であれば、外観さえ変えなければ、中はどうやってもよいのである。

今回の計画策定において、街並みづくりに歴史的建造物が貢献する、といった、我々の要望を、入れていくことがあってもよい。

ただ、それが今回の計画で似つかわしくない、ということであれば別であるが、他の実例なども含め、教えていただければと思っている。

(手島会長)

そういったことも含め、次回、事務局からご報告いただきたい。

最後に、欠席の後藤委員と事務局がウェブ会議を行ったので、その内容についてご報告いただきたい。

(事務局(原澤副主幹))

まず、歴史的風致については、概ね、方向性としてはよいというご意見をいただいた。

また、重点区域については、総社地区については、古墳だけだと生活と縁遠いが、養蚕住宅を含め、地域を見直して位置づけることは、住民やこれから居を構える人たちにとってはとても良いことだと思う。むしろ街なかだけでなく、2地区の方がよいと感じる、という意見であった。

このほか、将来的な歴史的風致形成建造物に指定するために、戦略的に建造物を位置づけるべき、とのことであった。

(大塚委員)

実は、私の家は養蚕農家で、隣に五千石用水が流れており、2つの歴史を持っている。以前、前橋の行政が、交通を中心とした整備を行っており、すべて用水を暗渠にしようとしていた。一番、景観としてはよいところで、用水が道路の真ん中を流れており、そして川棚がある。

残念であるが、それはそっくり埋められたが、親父が最後まで反対して、うちの隣だけ残した。石垣も、昔の石垣のまま残してくれてある。

地域では、親父は変わった人だと思われていたようだが、そのような評価をされながら今日まで維持してきた。今、自分が委員になって、親父の凄さを改めて感じている。

村田副会長が指摘していたが、私がショックなのは、前橋には麻屋がない、丸登がない、知事の公舎がない、なぜ壊してしまうのか、これは、私が一番感じていたことである。

日光に、日本で最初の外国人専用ホテルがあり(金谷カテッジイン)、木造建築であるが、今は観光地となっている。当時のあばら家であっても残っていたのである。それが残っていたことによって、登録有形文化財となり、今も利活用されている。

その意味では、どんな形でも残ったものがあればそれを復元すべきである。その意味では、前橋は残念な行政だった思う。

今の市長は、この歴まちをやろうという市長なのであるが、これまでの行政は大きな欠陥だと感じている。

(手島会長)

これまでの行政の反省もあって、歴まち法で取り戻したい。広瀬川も、昭和40年代の石井市長の時代に、市内の住民の声を容れて、全部暗渠にする案があった。後の市長の萩原弥惣治氏は反対であったが、市議会の1年生議員のため、言い出せなかった。結局、直前に石井市長が反対したため、暗渠にならなかったことを、生前の萩原氏から教えていただいた。

結局、「残る」というのは様々な理由があるが、国もその反省から歴まち法を制定したのであろう。

(大塚委員)

川のせせらぎは、朝起きたときに人間だれしもホッとするものである。それを暗渠にすることですべて消えてしまった。今も利根川の川岸の土地は人気があるようで、川の音が聴きたいのである。人間は自然を重視するのである。

(村田副会長)

後藤委員の意見にもあったが、7章になると、否が応でも歴史的風致形成建造物の指定指針を定めなければならない。その際、候補となる物件が圧倒的に少ない。

前橋の登録有形文化財は、個人が手を挙げたものと、市の所有にしたものは対応してきたが、それ以外の働きかけはほとんどやっていない。調査研究が進んでいないというのが決定的な理由である。山車についても、調査したことで位置づけが見出されている。

前橋も景観重要建造物の調査を進めているようであるが、なるべく調査を進めて、戦略的に位置づける必要があるのではないか。

登録有形文化財については、所有者自身が調査費を出して、価値づけをしない限りは登録できないが、私有のものであっても、公として価値があるものとして、予算化して、年に1棟ずつやる、という手段を採用している市町村もある。ただ、前橋はやっていない。

少なくとも、今回重点地区になるところで、50年以上経過している建造物がどれくらいあるか、という調査があってもよい。

その結果を受けて、戦略的に、指定をしていく、又は、指定ができなければ、国登録にしていく、という形で進めた方がよい。

(手島会長)

事務局は検討すること。

(戸所副会長)

何の建物があって、どれを残すか、ということについては、例えば若宮町の上毛倉庫や、同級生がやっていた住吉町のヤマニなどが思い出される。

ヤマニは、相続などでバタバタしているうちに時間切れとなり、建物を潰すだけでなく、本来商品になるような味噌などを産業廃棄物で出すことになってしまった。

結局、いざ残すかどうかという時にはもう間に合わないわけで、普段から常にコミュニケーションを行い、把握をしていく必要がある。

そのことに歴まちがどれだけ利用できるのか。

(大塚委員)

古い建物の固定資産税の減免なども、前橋で行うべきだ。

(戸所副会長)

そういったことも含め、これは計画書の後半になると思うが、保存するにあたって、保存に協力しやすい政策がないと、目的とするまちづくりの達成はできないのではないかと思う。また、その覚悟も必要である。

(手島会長)

歴まち計画を策定した自治体は、それを受けて、活動や措置を行い、街全体を維持していっている。当然、今後事業を挙げていく中で、考えていかなければならない。

3 その他

今後の日程等について

4 閉会

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更新日:2021年06月30日