爆撃照準点(中心点)(ばくげきしょうじゅんてん(ちゅうしんてん))
〜前橋空襲(まえばしくうしゅう)を語(かた)り継(つ)ぐ場(ば)〜 前橋空襲(まえばしくうしゅう)の爆撃照準点(中心点)(ばくげきしょうじゅんてん(ちゅうしんてん))
【前橋空襲(まえばしくうしゅう)を語(かた)り継(つ)ぐ爆撃照準点(ばくげきしょうじゅんてん)】
前橋市(まえばしし)がアメリカの空軍(くうぐん)B29の空襲(くうしゅう)を受(う)けたのは、アジア・太平洋戦争(たいへいようせんそう)終結(しゅうけつ)の直前(ちょくぜん)、昭和(しょうわ)20年(ねん)(1945)8月(がつ)5日(か)午後(ごご)10時(じ)28分(ぷん)から6日(か)午前(ごぜん)0時(じ)8分(ぷん)であった。
爆撃照準点(ばくげきしょうじゅんてん)をめがけ約(やく)18万発(まんぱつ)もの焼夷弾(しょういだん)が投下(とうか)され、この1回(かい)の空襲(くうしゅう)により市街中心部(しがいちゅうしんぶ)約(やく)80パーセントが焦土(しょうど)と化(か)し、約(やく)600人(にん)の死者(ししゃ)を出(だ)した。
下(した)の図(ず)は、前橋空襲(まえばしくうしゅう)に使用(しよう)された「リト・モザイク(爆撃中心点参照用集成図(ばくげきちゅうしんてんさんしょうようしゅうせいず))」である。前橋空襲(まえばしくうしゅう)で指定(してい)されたとされる「102072」という数字(すうじ)は、最初(さいしょ)の3桁(けた)が横座標(よこざひょう)、次(つぎ)の3桁(けた)が縦座標(たてざひょう)を表(あら)わす。
実際(じっさい)に爆撃地点(ばくげきちてん)を指定(してい)する際(さい)のルールによれば、「いくつもの火災区画(かさいくかく)で同時(どうじ)に火災(かさい)が発生(はっせい)するように、なるべく人口(じんこう)あるいは天然(てんねん)の防火帯(ぼうかたい)が交(まじ)わる地点(ちてん)で、明瞭(めいりょう)に確認(かくにん)できる特徴(とくちょう)のある点(てん)」とされ、通常(つうじょう)は道路(どうろ)の交差点(こうさてん)であった。
このルールに従(したが)い、縦横(たてよこ)の交差(こうさ)を求(もと)めると、市道(しどう)02-390と中央通り(ちゅうおうどおり)の交差点(こうさてん)、すなわち、丁字(ていじ)の交差点(こうさてん)(丁字路(ていじろ))だと推定(すいてい)できる(工藤洋三(くどうようぞう)氏(し)の見解(けんかい)より)。

リト・モザイク(りと・もざいく)(爆撃中心点参照用集成図(ばくげきちゅうしんてんさんしょうようしゅうせいず))
提供:工藤洋三(ていきょう:くどうようぞう)

米国国立公文書館(べいこくこくりつこうぶんしょかん)
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更新日:2024年11月28日