宮城の文化財を訪ねて

長い歴史を持つ宮城地区は、桝形遺跡や市之関遺跡・櫃石といった旧石器時代から古代の遺跡をはじめ、三夜沢赤城神社では中世以降の信仰の様子を、阿久沢家住宅では江戸時代の生活を見ることができます。その他各地に石造物などが残されています。

阿久沢家住宅(国指定重要文化財)

阿久沢家住宅

柏倉町604-1

阿久沢家住宅(あくざわけじゅうたく)は、北関東の平地における中規模農家の典型的な古民家です。茅葺寄棟造りで、規模は桁行8間(15.3m)・梁間4間半(8.2m)です。建造年代は17世紀末と推定され、県内でも最古級の民家の一つです。昭和49年(1974)から50年(1975)にかけて解体修理が行われ、創建当時の姿を今に伝えています。

三夜沢赤城神社

三夜沢町114

本殿内宮殿(県指定重要文化財)・本殿並びに中門(県指定重要文化財)・たわらスギ(県指定天然記念物)・神代文字の碑(市指定重要文化財)・太々神楽(市指定重要無形民俗文化財)

本殿並びに中門

三夜沢赤城神社(みよさわあかぎじんじゃ)の本殿並びに中門(ほんでんならびにちゅうもん)は、明治2年(1869)の建立と伝えられています。本殿は正面3間・側面2間の神明造りで、切妻平入です。屋根は銅板葺で大棟には千木(ちぎ)・堅魚木(かつおぎ)をあげています。本殿前の中門は一間一戸の四脚門で、同じく銅板葺です。いずれも当時の神仏分離・復古神道の影響を受けたものです。本殿内宮殿(ほんでんないくうでん)・たわらスギ・神代文字の碑(じんだいもじのひ)・太々神楽(だいだいかぐら)については、パンフレット参照

赤城神社惣門(県指定重要文化財)

赤城神社惣門写真

赤城神社惣門

赤城神社 三夜沢町429-1

赤城神社惣門(あかぎじんじゃそうもん)は、参道松並木終点付近の、赤城神社本殿から約500mの場所にあり、周囲には「下馬」の標石が置かれています。「高麗門(こうらいもん)」という様式の門で、扉はなく、鳥居のような形をしています。『赤城神社年代』には、宝暦元年(1751)条に「今年四月惣門造立」とありますが、虹梁(こうりょう(注1))の袖模様や親柱の虹梁端の象鼻(ぞうばな)の彫刻などに室町期の様式の名残が見られることから、部材の一部に古材を使い、これ以前に創建されたものと考えられます。

注1:社寺建築における梁の一種で、虹のようにやや弓なりに曲がっているもの。

櫃石(県指定史跡)

櫃石

三夜沢町968

櫃石(ひついし)は、赤城山荒山の中腹にある小峰の頂上(標高877.9メートル)に位置する古墳時代中期(5世紀後半から6世紀前半)の祭祀遺跡です。長径4.7メートル・短径2.7メートル・高さ2.8メートルほどの巨石を中心として周囲にも径1から2メートルほどの自然石が見られます。巨石の周辺からは滑石製模造品や手捏ね土器などの祭祀遺物が採集されています。

市之関住吉神社

市之関町665

宮城流算額(市指定重要文化財)、狂歌合わせの額(市指定重要文化財)、折句合わせの額(市指定重要文化財)

市之関住吉神社

市之関住吉神社

算額(さんがく)とは、日本で発達した数学である和算(わさん)の研究成果を額に記して神社仏閣に奉納したものです。江戸時代、和算は各地で盛んに研究され、算額も全国各地に分布しています。群馬県でも、上毛カルタに詠まれた「関孝和(せきたかかず)」をはじめとした多くの数学者(「和算家」)を輩出し、県内各地に数多くの算額が奉納されています。市之関住吉神社(いちのせきすみよしじんじゃ)の宮城流算額(みやぎりゅうさんがく)は六本木忠右衛門とその門人たちにより慶応4年(1868)に奉納されたもので、京都の和算家「宮城清行」の流れをくむ「宮城流」を名乗っています。この地域でも盛んに学問が行われていたことを示すものです。

大前田世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像(市指定重要文化財)

世良田薬師の阿弥陀像

大前田町542-1

大前田世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像(おおまえたせらだやくしのせきぞうあみだにょらいざぞう)は、凝灰岩製の石仏です。遺存状態は大変良好で、立体的な各部位の表現もはっきりと見てとれます。本像の石材はみどり市笠懸町に所在する天神山から産出された凝灰岩であることが判明しています。造立年代は彫刻手法や石材などから鎌倉時代後期頃と考えられます。

大前田諏訪神社の獅子舞(市指定重要無形民俗文化財)

大前田諏訪神社の獅子舞

諏訪神社 大前田町816

大前田諏訪神社の獅子舞(おおまえたすわじんじゃのししまい)は、宝暦年間(1751~1763)に始まった大前田の獅子舞は、龍頭獅子舞といわれます。古くは西原の下の諏訪神社で行われていましたが、保存していた小屋が火災にあったとき、獅子頭3体は火の玉となって現在の諏訪神社の方へ飛んでいき、こちらで舞うようになったとされます。毎年10月に奉納されています。

柏倉丸山上野南渓の碑(市指定重要文化財)

柏倉丸山上野南渓の碑

柏倉町(個人所有)

柏倉丸山上野南渓の碑(かしわぐらまるやまうえのなんけいのひ)は、文政2年(1819)に建立されました。この石碑は、通称丸山と呼ばれている山上にあり、国津神(くにつかみ(注1))の一つ猿田彦(さるたひこ/さるたひこのかみ(注2))を祀った記念碑です。

選文・文筆共に上野南渓(うえのなんけい)と伝えられ、碑文は漢文で銘文能筆です。

 

注1:日本神話に登場する神の分類。大国主など、天孫降臨以前からこの国土を治めていたとされる土着の神(地神)を「国津神」、天照大神などがいる高天原の神を「天津神」といいます。

注2:天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。

柏倉の双体道祖神(市指定重要有形民俗文化財)

柏倉の双代道祖神

柏倉町1322-3

柏倉の双体道祖神(かしわぐらのそうたいどうそじん)は、「天明五之歳(1785年)十一月吉日、講中」の銘があります。

道祖神とは、「塞の神」で「塞」とは「さえぎる」「せきとめる」という意味で、外からの疫病を防ぎ、住人が健康で毎日の農作業に励めるよう、そして道路の悪霊を防いで旅人の安全を守るために設置されているものです。

 

東昌寺石造薬師如来坐像(市指定重要文化財)

東昌寺石造薬師如来坐像

東昌寺 柏倉町1428-1

東昌寺石造薬師如来坐像(とうしょうじせきぞうやくしにょらいざぞう)は、病気平癒や長寿の象徴である薬壷(やっこ)を左手に持っており、薬師如来と考えられます。凝灰岩を使った肉厚で立体的な表現から、南北朝期ころの作とみられます。表面は彩色の跡がうかがえ、光背には三尊の種子(しゅし 注1)などが刻まれていた可能性があります。癒しや救いを求める人々の願いをこめてつくられたのでしょう。

注1:仏尊をあらわす梵字(ぼんじ)

赤城神社御神幸の興懸(市指定重要有形民俗文化財)

赤城神社御神幸の興懸

柏倉町902

赤城神社御神幸の興懸(あかぎじんじゃごじんこうのおこしかけ)は、三夜沢の赤城神社の参道松並木入口付近にあります。

毎年4月と12月の初の辰の日に柏倉地区の阿久沢家の人々は、わら宮を建て、まわりを掃き清めて、二之宮町の赤城神社から三夜沢町の赤城神社へ向かう神衣(かんみぞ)を安置するならわしがありました。

 

赤城寺

鼻毛石町330

赤城寺の石幢(市指定重要文化財)、赤城寺の種子十三仏塔(市指定重要文化財)、北爪将監の供養塔(市指定重要文化財)

北爪将監の供養塔

赤城寺(せきじょうじ)には、北爪将監供養塔(きたづめしょうげんくようとう:市指定重要文化財)をはじめ、数多くの文化財があります。この供養塔は、北爪将監(注1)の没後約100年を経た享保11年(1726)に建てられました。改修工事の際にかめの中から、かぶと仏2体、奥歯1個、経文1巻、仏舎利40粒が発見されたとされます。

隣接する六地蔵の石幢(せきどう)は、風化しやすい石材(凝灰岩)でつくられているため、相当風化が進んでおり、銘文はありませんが、鎌倉時代のものと推定されます。

 

  1. 北爪将監:北爪出羽守長秀を祖先とする豪族で、鼻毛石で出生した武将。三人の弟、大蔵(下増田町)、甚内(旧尾島町世良田字平塚)、新八郎(埼玉県大里郡三尻村)は、それぞれの地に分家し豪族として活躍した。

鼻毛石の宝塔(赤城塔)(市指定重要文化財)

鼻毛石の宝塔(赤城塔)

鼻毛石町963

 

鼻毛石の宝塔(赤城塔){はなげいしのほうとう(あかぎとう)}は、法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)の説話に基づいて造立された仏塔の一種で、滋賀県についで数多く宝塔が建てられた群馬県では、赤城山南麓地域に分布するタイプを特に「赤城塔」とも呼びます。粕川や荒砥川の流域に多く見られ、太田市世楽田の長楽寺の布教・開発とともに、この地域に天台思想が広まり、多くの宝塔が造立されたと考えられます。この宝塔は屋蓋と塔身が残されており、その形状から南北朝期頃の作と考えられます。

白山古墳(市指定史跡)

白山古墳

苗ヶ島町1659

白山古墳(はくさんこふん)は、昭和29年(1954)、苗ヶ島の畑で露出していた石を取り除こうとしたところ遺物が発見されたことから古墳の石室と判り、群馬大学によって調査が行われました。

石の大半はすでに取り除かれていたため、石室の詳しい構造などは判っていませんが、奥壁や側壁の一部が残っています。副葬品としては日本最古級の貨幣である和銅開珎(わどうかいちん)や仏具の一つである佐波理鋺(さはりわん)、柄頭(つかがしら)がワラビの芽の形をした蕨手大刀(わらびてのたち)などがあり、本古墳に葬られた豪族の権威を示すものと考えられます。出土品は現在奈良国立博物館で保管・展示されています。

金剛寺

苗ヶ島町1147-2

金剛寺の石幢(市指定重要文化財)、石殿(おびんづる様)(市指定重要文化財)、赤城塔(並木道祖神)(市指定重要文化財)、石殿(開山円義上人の墓)(市指定重要文化財)、木像十一面観音坐像(市指定重要文化財)、金剛寺の懸仏(市指定重要文化財)、金剛寺本堂の欄間彫刻(市指定重要文化財)、金剛寺の宝篋印塔(市指定重要文化財)、金剛寺の石造五層塔(市指定重要文化財)、東宮鐡男大佐の墓(市指定史跡)、金剛寺のナツメ(市指定天然記念物)、金剛寺の双体道祖神(市指定重要有形民俗文化財)

木像十一面観音坐像

苗ヶ島町金剛寺の文化財

金剛寺は平安時代末の承安年間(1171~1175)の創建といわれ、多くの文化財を残しています。現在の本堂は宝暦年間(1751~1764)に再建されもので、市指定重要文化財の「欄間彫刻」は当時名工と言われた関口文次郎他3名の合作となっています。その他、江戸時代のものとして、石殿2基、宝篋印塔(いずれも市指定重要文化財)、双体道祖神(市指定重要有形民俗文化財)が所在します。また、本尊の十一面観音菩薩坐像、赤城塔(並木道祖神)、石幢、石造五層塔や懸仏(いずれも市指定重要文化財)は中世にまで遡るもので貴重な文化財です。さらには、市指定天然記念物の「ナツメ」や昭和の初め日中戦争当時、日本人入植による満蒙開拓政策を推し進めた軍人東宮鐡男大佐の墓(市指定史跡)が所在します。

斉藤多須久翁の碑(市指定重要文化財)

斉藤多須久翁の碑

苗ヶ島町1061-1

斉藤多須久翁(さいとうたすくおう)は、苗ヶ島町の生まれで、幼名を伊太郎、後に寛之助と名のりました。国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)・権田直助(ごんだなおすけ)を師とし皇朝医学(注1)を学びました。

明治2年(1869)、全国に先がけ村に神葬祭を取り入れたり、明治5年(1872)前橋八幡神社祠官になったのを初め、貫前神社禰宜、群馬県神道事務分局副長、県庁編集局学務委員などの職につき、神官の仕事の他、社会教育・官公職等幅広い分野で活躍しました。

後に大教正平山省斉と大成教を創設し、その会長となりました。また、御嶽教の幹事を兼任し、その教師となり、明治27年(1894)7月大教正に任ぜられましたが8月16日に59歳で病死しました。

 

皇朝医学:『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典研究を通じて日本固有の思想・精神を極めようとする“国学”の思想に基づく医学。日本古来の医学。

宿の平の宝塔(忠治の赤城塔)(市指定重要文化財)

宿の平の宝塔(忠治の赤城塔)

苗ヶ島町(個人所有)

宿の平の宝塔(忠治の赤城塔)(しゅくのだいらのほうとう(ちゅうじのあかぎとう))は、石製の仏塔の一種で、赤城山南麓(特に粕川・荒砥川の流域)に多く見られるタイプを「赤城塔」とも呼ばれます。この宝塔は苗ヶ島字宿之平にあり、鎌倉時代末期の元亨4年(1324)3月21日と銘があり、赤城塔の初期のものと考えられます。群馬県は関東地方の他の地域と比べても数多く分布しており、滋賀県に次ぐ数の多さを誇ります。特に赤城山南麓地域は特に密集しており、天台宗の影響の強さがうかがえます。

 

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更新日:2022年08月16日