総社・清里の文化財を訪ねて

「総社・清里の文化財めぐり」の一部を掲載しています。詳細は下のパンフレットをご覧下さい。

総社地区は古墳時代から文化の栄えた地域で、その歴史にふさわしい史跡・文化財が集中しています。また、清里地区にも貫重な文化財が残されています。

野良犬獅子舞(市指定重要無形民俗文化財)

清野町346

 八幡宮 野良犬獅子舞(のらいぬししまい)は、一人立ち三頭の獅子で舞う獅子舞で、その年の豊作を祝って神に感謝するため、清野町の八幡宮で秋祭りの日に奉納されていました。近隣の吉岡町にある八幡宮から慶長年間(1596~1615)に伝わったといわれ、流派は、関白龍天(かんぱくりゅうてん)流と伝えられています。
 野良犬獅子舞は首を左右に振り上げるのが特徴で、動感がよく獅子頭に伝わり、勇壮さを表すとされています。獅子頭は、桐の巨木をくりぬいて作ったものです。舞の種類は、動きの激しいものや、優雅さを併せ持ったものなど、13種あります。
 昔はこれを舞う人は、八幡宮氏子(うじこ(注釈1))の長男に限られていましたが、現在では地区に残る伝統芸能として町民がこれを受け継ぎ、保存と普及活動につとめています。

(注釈1)氏子:神社の信仰圏を形成する人々をさす。

神明宮

池端町157

 この神明宮(しんめいぐう)は、円墳(清里3号墳)の上に建立されていて、大日孁命(おおひるめのみこと(注釈1))を祭神としています。
 上野国神明帳(こうずけのくにしんめいちょう(注釈2))に従五位池岸明神とあるのは、この神明宮のことであると言われています。

(注釈1)大日孁命:古事記に出てくる天照大御神(日本書紀では天照大神)の別名。
(注釈2)上野国神明帳:上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)の御神体で、上野国中の神社の祭神名を記した帳簿のこと。

正法寺

青梨子町120

 正法寺(しょうほうじ)は天台宗の寺で、境内には文明18年(1486)銘の六地蔵石幢(せきどう(注釈1))があります。輪廻車(注釈2)の孔のついたものとしては市内で最も古いものです。後に付けた車が現在もついており、仏にすがる乱世の人々の苦悩をしのばせる遺物といえます。

(注釈1)石幢:石造建築物の一種で、石灯籠に似た小型の石柱。
(注釈2)輪廻:人が何度も生死を繰り返すこと。生前の行為の善悪によって、人は死後に六道(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天)を輪廻転生するといわれ、六道それぞれに、救済のための地蔵(檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵)が配されている。

石田玄圭の墓(県指定史跡)

高井町1丁目34-12

 石田玄圭(いしだげんけい)は、江戸時代後期の医家・和算家で、医者として多くの人々に尽くしたばかりでなく、天文・暦学(れきがく)・数学者として弟子の養成や学問研究につとめた人物です。玄圭は、佐位郡(現在の伊勢崎市の一部)に生まれ、群馬郡高井村(現在の前橋市高井町)に移り、文化14年(1817)に没しました。
 医は、江戸の医者三浦青渓(みうらせいけい)に入門し、数学は、江戸の藤田貞資(ふじたさだすけ)に学びました。和算では、関流五伝(せきりゅうごでん(注釈1))の免許を伝授され、「暦学小成」等の書物を著しています。
 前橋市総社町から北群馬郡榛東村へ向かう県道南新井前橋線の南にある墓地の西端に「珳亭一惪居士」と刻された墓石があり、これが、石田玄圭の墓とされています。

(注釈1)関流五伝:関流は、関孝和を祖とする和算の流派の一つ。関孝和の直弟子を初伝とし、以後、二伝、三伝と続く。

植野稲荷神社太々神楽(市指定重要無形民俗文化財)

総社町桜ヶ丘1039-2 植野稲荷神社

 植野稲荷神社太々神楽(うえのいなりじんじゃだいだいかぐら)は、植野稲荷神社(一本木稲荷神)に、奉納されてきた神楽です。江戸時代の末期に群馬郡六郷村(現在の高崎市小塙町)にある神社に伝承された大和流神楽を移入したと伝えられています。
 古い綺羅(きら:衣装のこと)には「天保八丁」と書かれた文字が読み取れます。気品の高い典雅な舞であり、幕数は18座あります。
 舞面は、植野に住んでいた石川某という名工の作といわれ、桐材で彫られた優美な面です。

(注意)市指定重要民俗文化財の指定名称は、「植野稲荷神社太々神楽附面四点・衣装三点」である。

天狗岩用水

渋川市北橘町真壁~問屋町北部(現在)

 天狗岩用水(てんぐいわようすい)は、初代総社藩主の秋元長朝(あきもとながとも)により、慶長9年(1604)から足掛け3年を費やして開削された農業用水です。
 工事の際、取水口付近にあった動かすことができないほど巨大な岩を、天狗が現れて取り除いたので工事が完成したという伝説から、天狗岩用水と呼ばれるようになりました。
 秋元氏は、田畑に用水を供給して農業を安定させ、藩内の経済基盤を充実させる計画を立てました。しかし、水位の低い利根川から取水するため、取入口を遙か上流に設けざるを得ない大事業でした。農業生産安定のため地元農民もその必要性を認め、秋元氏家臣と地元農民の協力のもと、総力をあげてこの事業は行われたと言われています。
 後に地元農民は、用水確保に努めた秋元長朝への謝意を込め、現在、光厳寺(こうがんじ)に建っている「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」を建立したと言われています。
(光厳寺の詳細は本ページ下部の「光厳寺」をご覧ください)
 この天狗岩用水は、前橋市内の小学校中学年の社会科副読本で取り上げられています。

勝山城跡

総社町植野

 勝山城(かつやまじょう)は、元景寺の北西に位置し、総曲輪は約4キロメートルにわたる縄張りを持っていたと言われています。
 赤松氏(後に関口と改姓)により、応安4年(1371)築城されたと伝えられている中世の城で、永禄9年(1566)長野氏の箕輪城落城後、武田氏の攻略により落城し廃城となったと言われています。
 利根川の氾濫によりその大半が河川に崩落し、現在はそのおもかげはありません。

立石諏訪神社の獅子舞(市指定重要無形民俗文化財)

総社町植野462 諏訪神社内

 立石諏訪神社の獅子舞(たついしすわじんじゃのししまい)は、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願し、町の鎮守である総社町植野の諏訪神社に奉納されてきた舞です。
 一人立ちの三頭の獅子とカンカチ(面をつけ道化役となったり三獅子をリードしたりする。)の計4人による豪快な舞です。
 諏訪神社は、文禄元年(1592)に諏訪安芸守頼忠(すわあきのかみよりただ)が総社城に封ぜられた際に、諏訪大社(長野県)から観請(注釈1)されたと言われています。

(注釈1)観請:神などを寺社に新たに迎えること。

元景寺

総社町植野150

 元景寺(げんけいじ)は、初代総社藩主の秋元長朝(あきもとながとも)が、父である景朝(かげとも)の菩提を弔う(注釈1)ために建立した寺です。境内には、秋元氏墓地(あきもとしぼち)、石造地蔵菩薩坐像(せきぞうじぞうぼさつざぞう)、天明の供養塔(てんめいのくようとう)、羽階権現(はがいごんげん)などがあります。
 秋元氏墓地は市指定史跡で、境内裏にある景朝・景朝の正室・側室の墓です。
 石造地蔵菩薩坐像は市指定重要文化財で、応永28年(1421)の銘があります。
 天明の供養塔は、天明3年(1783)の浅間山の大爆発による犠牲者を弔うために建てられた供養塔です。
 羽階権現は、天狗岩用水の天狗伝説にまつわるもので、大岩を取り除いた天狗に感謝して、その天狗をまつるために建てられたと言われています。
(天狗岩用水の詳細は本ページ上部の「天狗岩用水」をご覧ください)

(注釈1)菩提を弔う:供養すること。死者の霊などの、死後の幸福を願うこと。

五千石用水

総社町植野~元総社

 五千石用水(ごせんごくようすい)は、元景寺北方で天狗岩用水と分かれ、総社地区をめぐり山王から元総社・東地区に至る用水で、総社城の内濠の用水、宿場用水、水田用水を兼ねていました。
(元景寺、天狗岩用水の詳細は本ページ上部の「元景寺」、「天狗岩用水」を、総社城は本ページ下部の「総社城跡・南木戸跡・西木戸跡」をご覧ください)
 この用水の流路は、天狗岩用水から東へ引き入れたものを、天狗岩用水を樋で渡して西に流しており、できるだけ総社領内を通すためだと言われています。用水を利用している地域の米の取れ高が五千石に達したことから、この名称がついたとのことです。

(総社)二子山古墳(国指定史跡)

(総社)二子山古墳の写真

(総社)二子山古墳

総社町植野368

 (総社)二子山古墳((そうじゃ)ふたごやまこふん)は、二段に築造された前方後円墳で構造の異なる2つの石室をもっています。
後円部の石室は、切石(きりいし)加工した角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)をもちいた全長9.4メートルの横穴式石室(現状は天井石が崩落している)です。前方部の石室は、自然石乱石積みの全長8.76メートルの横穴式石室です。後円部石室が造られた後、前方部石室が造られたと考えられます。
 石室はともに江戸時代に開口し、出土遺物のすばらしさで注目されました。出土品の一部は、東京国立博物館で現在所蔵しています。
 墳丘表面には葺石(ふきいし(注釈1))が認められ、周掘(しゅうぼり)も周囲の地割りからその痕跡が認められます。
 この古墳は、総社古墳群中最大の規模であり、総社地区に有力な豪族が存在したことを物語っています。

  • 墳丘全長89.9メートル、前方部 幅61メートル、高さ8メートル、後円部 直径44メートル、高さ7メートル
  • 古墳時代(6世紀後半)

(注釈1)葺石:古墳の墳丘斜面などに、貼りつけるように葺(ふ)いた石。

愛宕山古墳

総社町総社1763

 愛宕山古墳(あたごやまこふん)は、一辺約56メートル、高さ8.5メートルの方墳で、7世紀前半に造られました。
 石室は、自然石の巨石を積み上げた大型の横穴式両袖型石室(注釈1)で羨道(せんどう(注釈2))と玄室(注釈3)があります。玄室の奥壁寄りには、凝灰岩(ぎょうかいがん)製の家形石棺(いえがたせっかん)が安置されています。群馬県内で家形石棺を使用しているのは、この愛宕山古墳と、同じく総社地区内に所在する宝塔山古墳の他、太田市に1例が知られています。
(宝塔山古墳の詳細は本ページ下部の「宝塔山古墳(国指定史跡)」をご覧ください)
 前方後円墳が造られなくなった後に造られたこの古墳は、方墳という墳丘形状や家形石棺とともに上野地域において匹敵する古墳は見られません。

  • 全長 墳丘高8.5メートル、一辺約56メートル
  • 古墳時代(7世紀前半)

(注釈1)両袖型石室:羨道部(古墳内部の通路)から見て玄室(死者を埋葬する墓室)の袖部が左右に広がっているもの。
(注釈2)羨道:古墳の内部(石室など)と外部とを結ぶ通路部分。
(注釈3)玄室:横穴式石室などの死者を埋葬する墓室。

光巌寺

総社町総社1607

 光巌寺(こうがんじ)は、初代総社藩主の秋元長朝(あきもとながとも)が菩提寺として建立した寺です。境内には、県指定史跡「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ(注釈1))」をはじめ、江戸初期と推定される「薬医門(やくいもん(注釈2))」や室町期と推定される「東覚寺層塔(とうかくじそうとう(注釈3))」等があります。秋元氏の位牌が安置されているご廟所(びょうしょ(注釈4))には「八方睨みの龍」といわれる天井画が描かれています。

(注釈1)力田遺愛碑:天狗岩用水によって恩恵を受けた農民が、用水を開削した秋元長朝に感謝して安永5年(1776)に建てたもの。県指定史跡である。「田に力めて(つとめて)愛を遺せし碑」
(天狗岩用水の詳細は本ページ上部の「天狗岩用水」をご覧ください)
(注釈2)薬医門:室町時代の書物『門記集』に「裏門地」と記され、棟門の簡素な形とされている。市指定重要文化財である。
(注釈3)東覚寺層塔:相輪、七層の屋蓋、塔身そして二段の貴台からなっており、塔身の正面には「南無阿弥陀仏」と記されている。
(注釈4)廟所:祖先や貴人の霊を祭った場所のこと。

宝塔山古墳(国指定史跡)

宝塔山古墳の写真

宝塔山古墳

総社町総社1606

 宝塔山古墳(ほうとうざんこふん)は、総社古墳群の中で愛宕山古墳(あたごやまこふん)に次いで造られた大型の方墳です。墳丘の上を総社藩主秋元氏歴代墓地として利用され、その際に多少の改変がなされています。
(愛宕山古墳の詳細は本ページ上部の「愛宕山古墳」をご覧ください)
 墳丘の南側中腹に横穴式石室をもち、この石室は、羨道(せんどう(注釈1))・前室・玄室(げんしつ(注釈2))の三部分からなっています。壁・天井には、きれいに面取り加工された安山岩の切石が使われており、表面に漆喰(しっくい(注釈3))を塗った跡が見られます。玄室には長さ2.3メートル、幅1.3メートル、高さ1.33メートルの家形石棺があります。
 石棺の蓋石(ふたいし)の側面には、方形の縄掛突起を造りだし、脚部には仏教文化の影響とみられる格狭間(こうざま(注釈4))の手法が認めることができます。

  • 全長 墳丘高12.4メートル、一辺約60メートル(周掘を含めた規模は、一辺約100メートルを超えると考えられる)
  • 古墳時代(7世紀後半)

(注釈1)羨道:古墳の内部(石室など)と外部とを結ぶ通路部分。
(注釈2)玄室:死者を埋葬する墓室。
(注釈3)漆喰:消石灰に繊維質や砂などを混ぜて水で練ったもの。
(注釈4)格狭間:壇や台の側面に施され、くりぬいたり、えぐったりして作る文様。

蛇穴山古墳(国指定史跡)

蛇穴山古墳の写真

蛇穴山古墳

総社町総社1587-2

 蛇穴山古墳(じゃけつざんこふん)は、総社古墳群最後の古墳で、宝塔山古墳(ほうとうざんこふん)の後に造られました。1辺39メートル前後の方墳で、墳丘の高さは約5メートルで、墳丘の周囲に二重の周掘を持っています。内堀の幅は11メートル内堀の外側は葺石を施した外堤があり、さらにその外側に外堀があり、二重の周掘を含めた一辺は約82メートルに及びます。
(宝塔山古墳の詳細は本ページ上部の「宝塔山古墳(国指定史跡)」をご覧ください)
 埋葬主体部は羨道部(せんどうぶ)のない横穴式石室で、天井・奥壁・左右壁ともきれいに面取り加工された一石の輝石安山岩(きせきあんざんがん)で組み立てられていることに加えて、宝塔山古墳と同様、壁面には漆喰を塗った跡があります。玄門は奥幅90センチメートル、前幅80センチメートルです。
 7世紀末に構築されたと推定されるこの古墳は、石材加工技術のすばらしさの中に仏教文化の影響が強く感じられます。

  • 全長 墳丘高約5メートル、一辺約39メートル(二重の周掘を含めた一辺約82メートル)
  • 古墳時代(7世紀末)

神明宮・粟島の百万遍

総社町総社1229

 百万遍(ひゃくまんべん)とは百万遍念仏供養の略称で、故人への供養や各種の祈祷などのため念仏を百万回唱えるものです。
 粟島の百万遍は、「ナンマイダ ナンマイダ」と念仏を唱えながら、大きな数珠を操る行事で、町や村に疫病神の侵入を防ぎ、無病息災を願って行われます。
 神明宮は総社町の鎮守の社で、総社城の大手門跡でもあります。
(総社城の詳細は本ページ下部の「総社城跡・南木戸跡・西木戸跡」をご覧ください)

遠見山古墳(市指定史跡)

総社町総社1410

 遠見山古墳(とおみやまこふん)は、5世紀後半頃に造られたと推定される前方後円墳で総社古墳群の中で最も古い古墳です。墳丘の長さは約70メートルで、周掘を含めると全長100メートルを超える大型古墳と考えられます。
 これまでの調査で、人物埴輪などの遺物が出土しています。また周掘には6世紀初頭に噴火した榛名山の火山灰が堆積していたことが確認できています。
 江戸時代に築造された総社城(そうじゃじょう)の城内にあり、墳丘が遠くを見るための櫓(やぐら)として利用されたことからこの名がつけられました。
(総社城の詳細は本ページ下部の「総社城跡・南木戸跡・西木戸跡」をご覧ください)

  • 全長 墳丘長約70メートル
  • 古墳時代(5世紀後半)

総社城跡・南木戸跡・西木戸跡

 総社城(そうじゃじょう)は、秋元長朝(あきもとながとも)により慶長12年(1607)に築城されました。城地は、東は利根川、西は天狗岩用水を外堀とし、城の周りの城下町には佐渡街道が通っていました。秋元氏は、初代長朝から二代泰朝(やすとも)までの約30年間、この地を支配しました。
(天狗岩用水の詳細は本ページ上部の「天狗岩用水」をご覧ください)
 城下町の入り口にあった南木戸は、明け六つ(午前6時頃)に開門され、暮れ六つ(午後6時頃)に閉門されたと伝えられています。大正時代までは、南木戸として使われた石積の跡が左右に残っていましたが、今は県道総社・石倉線のわきの歩道の植え込みに南木戸跡を示す石碑が建っています。
 城下町の西木戸は、天狗岩用水の立石橋東側に設けられました。今は、昔の面影はありませんが、橋のたもとに西木戸跡を示す標柱が建っています。

総社歴史資料館

総社町1583-3

資料館では、総社地区の開発や発展の様子について知ることができます。

1階展示室では、古くより著名な古墳群で、県内最大級の終末期古墳を擁する「総社古墳群」、東国最古級の古代寺院であり、全国的にも貴重な資料が発見されている「山王廃寺」、総社城の築城や天狗岩用水の開削など総社地区の基礎を築いた「秋元氏」について、出土品やジオラマなどの展示を行っています。2階展示室では、古代から現代までの生活に関する展示や、企画展示などを行っています。

開館時間 午前9時~午後4時

休館日 毎週月曜日(月曜が祝日の場合はその翌日)、年末年始

旧本間酒造

総社町1500

 旧本間酒造(きゅうほんましゅぞう)は、前橋市内に現存する数少ない造り酒屋の建物です。主屋と本蔵が国登録文化財となっています。
 主屋の建造は大正12年(1923)で、東に店舗、西に水廻りを配置し、2階に居室があります。商家としての特徴を有した建物で、旧佐渡奉行街道総社宿に残る大正期の町家建築です。
 大正2年(1913)建造の本蔵や大正5年(1916)建造の釜屋などの酒造蔵等は、当時の酒造りの工程をうかがうことのできる建物です。
 本間酒造は昭和44年(1969)まで醸造を行い、立飲(イノミ)も行なっていました。その後は仕入販売に移行し平成26年まで営業していました。

山王廃寺跡(国指定史跡)

山王塔跡の写真

山王塔跡

総社町

 山王廃寺(さんのうはいじ)は7世紀後半に創建されたと思われる東日本最古級の本格的寺院です。
 大正10年(1921)、総社町の山王地区にある日枝神社(ひえじんじゃ)境内で、塔心礎(とうしんそ(注釈1))や根巻石(ねまきいし)、石製鴟尾(せきせいしび(注釈2))が発見されており、華麗な古代寺院があったことが明らかとなりました。
 これまでの調査から、東に塔を、その西に金堂を、北側に講堂を置く伽藍配置(がらんはいち(注釈3))であったことが分かったほか、平成9年、11年の調査では、大量の塑像(そぞう(注釈4))が出土し、法隆寺五重塔と同様に塔本塑像が塔の初層に安置されていたと考えられ、畿内の有力寺院に匹敵するような寺院であったことが判明しています。
 その名は、地名にちなんで山王廃寺と言われてきましたが、昭和56年(1981)の発掘調査で、「放光寺」(ほうこうじ)と書かれた1枚の文字瓦が発見された事により、国特別史跡の山上碑(やまのうえひ。所在:高崎市)の碑文に記された「放光寺」と同一のお寺であることが分かりました。

(注釈1)塔心礎:建造物の柱などを支える礎石のうち、塔の心柱を支える石で、他礎石より大きく、舎利孔(しゃりこう)という鎮檀具(地鎮のため地下に埋められた品物)を納める穴がある。
(注釈2)鴟尾:口から水を噴出すると考えられている空想の生物で、火除けのまじないとして、屋根の大棟に飾られた。
(注釈3)伽藍配置:寺院における建物の配置のこと。
(注釈4)塑像:粘土で作った像。

上野国分寺跡(国指定史跡)

元総社町小見1650他

 上野国分寺跡(こうずけこくぶんじあと)は、前橋市元総社町から高崎市東国分町に広がる古代の寺院で、関越自動車道をはさんで東側には上野国文尼寺跡があります。
 国分寺とは、聖武天皇(しょうむてんのう)が天平13年(741)に各国に鎮護国家(ちんごこっか(注釈1))の為に造らせた寺院で、地域の文化や仏教の中心地でした。上野国分寺も、その詔(みことのり(注釈2))により上野国の中心、国府(こくふ)の近くの地に建立されました。
 昭和の調査により、寺域の範囲、塔、南大門などの伽藍配置(がらんはいち(注釈3))が明らかとなりましたが、近年の再調査の結果、中門や回廊の位置などが見直され、新たな伽藍配置となる可能性がでています。また、これまでの調査から郡名にかかわる文字の記された瓦も多数出土しており、この寺が上野国内各地の豪族の協力により建立されたことも分かります。

(注釈1)鎮護国家:仏法によって国家を護ろうとする思想
(注釈2)詔:天皇の命令、言葉。
(注釈3)伽藍配置:寺院における建物の配置のこと。

丁間稲荷神社・笠薬師塔婆(市指定重要文化財)

問屋町二丁目3-4 稲荷神社

 丁間稲荷神社(ちょうけんいなりじんじゃ)は、慶長7年(1602)の総社藩主秋元長朝(あきもとながとも)による天狗岩用水(てんぐいわようすい)開削の際に、京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう(注釈1))し、境内に用水測量の基点丁間台を設置して、工事の安全と完成を祈願したのが始まりと言われています。ここには市指定重要文化財の「笠薬師塔婆」(かさやくしとうば)があります。
(天狗岩用水の詳細は本ページ上部の「天狗岩用水」をご覧ください)
 笠薬師塔婆(かさやくしとうば)は、県内最古の様式をもつ笠塔婆(注釈2)です。裸形で丸顔の四方仏、笠石(かさいし(注釈3))の表現などから、平安時代末期から鎌倉時代の初期に造立されたものと考えられます。北方約300メートルの位置から移設されたものです。
 笠石の屋根は寄棟本瓦葺(よせむねほんかわらふき(注釈4))のような重なった四角形が彫刻されており、古い様子が分かります。塔の四面には、二重火炎光背(にじゅうかえんこうはい(注釈5))の中に裸形坐像(らぎょうざぞう)と台座が平面薄肉彫り(注釈6)で表現されています。
 像様(ぞうよう)は南方釈迦(なんぽうしゃか)、東方薬師(とうほうやくし)、北方弥勒(ほっぽうみろく)、西方弥陀(せいほうみだ)の顕教四仏(けんきょうしぶつ(注釈7))を表します。

  • 高さ1.12メートル 幅37センチメートル

(注釈1)勧請:神などを寺社に新たに迎えること。
(注釈2)笠塔婆:亡くなった人を供養するためにつくられた石製の塔。
(注釈3)笠石:塔の上部にある笠状の石。
(注釈4)寄棟本瓦葺:四方向に傾斜がある屋根で、平瓦と丸瓦とを交互に組み合わせて並べる屋根の葺き方。
(注釈5)二重光背:仏像の背後にあって仏の発する光を表す飾りのうち、頭部の頭光(ずこう)と身体部の身光(しんこう)が重なったものを二重光背という。
(注釈6)薄肉彫り:彫刻の技法の一種で、文様の盛り上がりの高さが低いもの。
(注釈7)顕教:密教に対し、言語によって明らかに説き示された仏教の教え。

王山古墳(市指定史跡)

大渡町一丁目6-1

 王山古墳(おうやまこふん)は中央大橋西側の利根川右岸に位置し、古い様相の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を埋葬主体部とする前方後円墳です。
 墳丘は全長75.6メートル、後円部の径は50メートルあり、外面には扁平な川原石が整然と葺かれていました。石室は後円部にあり、全長16.37メートルと非常に長い石室ですが、玄室(げんしつ(注釈1))奥の幅が1.6メートルと、奥に長く幅のせまいものです。また、石室の壁面は、赤い顔料で塗られていました。
 この古墳は6世紀初頭の築造で、群馬県に横穴式石室が導入された頃の古墳です。同時期の古墳としては、西大室町の前二子古墳があります。
 昭和47・49年度に発掘調査が行われ、その後、墳丘に約1メートルの盛土(もりど)をし、公園として保存整備されています。
墳頂部には石室の位置が分かるよう、石が並べられています。

  • 全長75.6メートル 前方部 幅63.1メートル、高さ3.9メートル 後円部 径50メートル、高さ4.5メートル
  • 古墳時代(6世紀初頭)の築造と推定

(注釈1)玄室:死者を埋葬する墓室。

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更新日:2020年12月11日