前橋空襲と復興資料館検討委員会令和4年度第4回会議

審議会名

前橋空襲と復興資料館検討委員会

会議名

前橋空襲と復興資料館検討委員会令和4年度第4回会議

日時

令和4年9月29日(木曜日)午後2時00分~4時00分

場所

市役所本庁舎 11階南会議室

出席者

委 員:手島委員長、岩根委員、吉良委員、新井委員(文化スポーツ観光部長)

事務局:田中文化国際課長(事務局長)、原田生活課長、小田副参事(生活課)、大友副参事(文化国際課)、大島主任(文化国際課)

傍聴者:6名

報道:上毛新聞社

欠席者

なし

議題

前橋空襲についての学習会

1.工藤洋三氏(空襲・戦災を記録する会全国連絡会議事務局長)

「アメリカが記録した8月5-6日の前橋空襲」

※オンライン講義

2.大谷明應氏(前橋学市民学芸員)

「戦略爆撃としての前橋空襲」

会議の内容

1 開 会

 

2 挨 拶

手島委員長が会議の開催に当たり挨拶した。

また、前回会議で実施した前橋商業高校生徒との意見交換について、朝日新聞が取り上げた記事の紹介を行った。

 

3 議 事

(1)前橋空襲についての学習会

【講師】1.工藤洋三氏(空襲・戦災を記録する会全国連絡会議事務局長)

※オンライン講義

資料1に基づき講義

 

山口県周南市から参加している。空襲・戦災を記録する会全国連絡会議の事務局長をしている。1994年から毎年、年に1回、2~3週間アメリカに空襲関係の資料の収集をしている。このテーマは、アメリカが記録したと書いたところが私の立ち位置である。実際は日本側の資料と逐一照合しながらだが、そこは出来ていないということを予めお断りしておきたい。

これから6つのテーマに分けて話していく。実は、私は一度だけ前橋市にお邪魔したことがある。今から15年前、8月4日から5日にかけて、前橋テルサで私たちの会の全国大会が開催された。それはどの様な動機だったかと言うと、前橋市で、歴史学者として有名な今井先生が前橋出身ということで、先生の会からの引退記念のような形で、前橋で開催したことがあり、その辺が前橋との接点だった。

はじめに、1945年8月5-6日の前橋空襲、私たちの言葉でいうと第14回中小都市空襲となるわけで、従来は、米軍の資料だと作戦任務報告書というのがあり、各地域空襲を調べる場合には分厚い作戦任務報告書の中から、例えば佐賀だったら佐賀だけ、昔はそこのところだけだったのだが、やはり空襲を考える場合に第14回中小都市空襲として一つの塊として考える。これは1日だけのことなのだが、時系列を考察する必要がある。最初に全体像を示させていただいた。実際この8月5-6日は4都市が空襲を受けていて、前橋の他に佐賀、四国の今治、それから大阪の西宮、芦屋、御影という空襲であった。一晩に4都市焼き払うのが、一つの方針だった。この4都市が一緒に攻撃された。

2番目に初期の日本空襲計画について。いつ頃日本空襲の研究が始まったか。1943年3月に発行された「Japanese target data」というのが最初になるというのが、大方の見方だった。これは、どのような文章だったかと言うと、まだB29は実は正規に配置されていない段階の状態で、ここに日本列島が見え、こちらは中国大陸がある。江西省から日本を空襲することを前提に研究が始まった。米軍は日本やアジアの目的を分類する場合、国別コードというものを持っていて、日本の場合は90、中国の場合は83で、満州は特別占領地域で93といった番号を付けている。今度は更に細分化して、日本本土に地域コードを付けていて、1番は樺太から始まって、北海道の西部、北海道の東部といって、39番の対馬で終わる。その中で前橋は、13番の高崎地域に分類される。従って、国番号を一緒にすると、90.13というのが、前橋に与えられた地域コードであった。この地域コードは具体的にこの輪郭を示したところで、前橋だけではなく熊谷も入っている。日本の行政区間とは全く関係ない。90.13の中には、どのような目標があるのかというと、例えばこのなかには足尾銅山とか、色々な飛行場が沢山あり、その中で、B29により攻撃を受けた所を赤丸で示してある。実際に「Japanese target data」に示された高崎地域、前橋周辺の目標を具体的に1943年の段階で、このように分類した。

色々な目標が出てきたが、これは陣地であるとか、軍隊であるとか、飛行場とか工場が多かったが、肝心な都市目標が入ってなかった。このひと月も経たないうちに、都市目標も検討しなければいけないということで、その命令が出た。その命令の結果、出たのが、7か月後の1943年10月には焼夷弾レポートが出て、これは色々な言い方があるが、日本本土の20都市を研究の対象にしている。戦争の末期まで効力もった報告書であった。どのようなことが書いてあったかというと、焼夷弾は新しい兵器で、その兵器で、火災を発生させて、都市を丸ごと焼き払う。日本でも欧米でも昔から大火には悩まされる。日本では江戸時代の大火とか、明治維新後は函館の大火とか、色々な大火があって、火災の専門家は火というものは本当に恐ろしいということが分かっている。イギリスであればロンドンの大火とか、アメリカだったらサンフランシスコ、シカゴの大火とかがあり、火災の専門家は、火災が、一旦手がつけられなくなると大変なことになることを知っている。従来の失火による大火と焼夷弾による空襲は根本的に違いがある、というのが焼夷弾レポートの根本的な考え方であった。平時では、たとえ出火場所が1つでも,強風などの気象条件や火災発見の遅れにより大火に至ることがあるが、焼夷弾空襲の場合、焼夷弾投下前から発生する火災を消そうと待ち構えている。このため、地上の消火隊を圧倒する火を放って都市に大火を発生させるというのが基本的な考え方であった。焼夷空襲理論というのは結局、地上の消防能力を上回る数の火災を発生させて、制御不能な大火を作ってやる。助かろうとするには、逃げるしかない。そういう大火を作りだす。最初に色々な焼夷弾が開発されて、色々な理論が出てきたが、それらのほとんどは淘汰され、最後に1つだけ有力な焼夷空襲理論が残っていった。これはイギリスではじめられて、アメリカがそれを引き継いだ。この下の図は、横軸は時間軸で、焼夷弾を投下すると、まず落下場所の居住者や訓練を受けた民間人が消火に当たる。同じ焼夷弾を落としても、初期消火のあり様によって、火が広がるかどうかは決まっていく。専門用語なのだか、アプライアンス火災という、初期消火を生き残る火災は、いったい何個あるか、計算上出す、理論上の火災である。そして、それまでは民間人が消火する。初期消火を妨害しないとだめだ、という考え方。実際、近代的な消防自動車がたどり着いたら、普通の焼夷弾を展開する。この二つの段階を区別するのが非常に大事だ。過去に色々な人がアプライアンス火災を訳そうと努力したが、なかなか上手く訳せない。アプライアンスは、イギリス英語で、アメリカ英語ではない。イギリスで消防自動車という意味で、直訳すれば、消防自動車火災、つまり消防自動車が来ないと消せない火災。または、敢えて訳せば要消防自動車火災。消防自動車など、専門の消防設備なしでは消すことが出来ない火災、または民間人の初期消火で残る火災のことをアプライアンス火災と言って、これが徹底的に大事な考え方である。それで、結局焼夷弾空襲はどの様なことを目指したかというと、この写真は、8月2日に空襲で市街地全体が燃えている富山を撮影したもので、この様に街全体を火の海にするのを目標にしたわけである。そのために焼夷弾リポート 何か所に投下するか、どの焼夷弾が効果的か、初期消火はどのように妨害すればよいのか。消防隊の消火を圧倒できるにはどのような焼夷弾か。どのような投下方法を用いるか。このような初歩的にすべて回答を与えた。結局、焼夷弾レポートの結論というのは、ドイツよりはるかに燃えやすく、大火になりやすい。日本を空襲するには焼夷弾がよいと、1943年の10月の段階でそういった結論を出している。ただし、軍が採用するまでには至っていない。実はこの理論は戦争が終わるまで生き残るが、それが注目されなかった背景というのは、焼夷弾リポートが提案した、普通の爆弾を使うよりも経済的に街を破壊できるということを書いてある。1平方マイル、1.6キロ四方なのだが、この1平方マイルあたり6トンあれば十分だ、という結論を出したが、これが非常に大きな批判を浴びて、一旦退却したが、この理論自体は残っていて、初めは6トンだったのが、8月5日の前橋空襲の段階になると1平方マイルあたり225トンの焼夷弾が要る。当初の40倍くらいになる。ここのところだけを見ると焼夷空襲理論は間違いということになるが、そうではなくて、エッセンスの部分は生き残った。マリアナから空襲するようになったので、普通の空襲よりも焼夷弾空襲だ、ということを軍の中枢、ワシントンが自覚するようになる。そのためにある時から試験空襲をやるという命令がでて、試験空襲は1945年1月3日名古屋空襲で1回目、2月4日神戸空襲で2回目、本当は2回で終わるはずだったが、うまく結論が出ない。今考えれば、焼夷弾空襲をすれば日本はよく焼けるが、軍の中枢は確証がないと作戦を展開できない。慎重だった。結局、3回目2月25日に東京を空襲して、この時雪が降っていたが、秋葉原の辺りが、結構派手に焼けた。それでこれでいこうということになった。どのようなところに焼夷弾を落とすかは決まっていて、名古屋の場合はこのように街の真ん中の住宅地とか商業地が多いところは区画1号で、周辺部が2号。名古屋城は燃えないだろうと予想していたが、実は燃えた。1月3日に試験をやるときに、本当は東京にやる予定だが、日本人に気づかれてはいけないので、わざと目標を外した。できるということが示されればよい。相手に気づかせない。変わった空襲をやる。実は2回目の神戸でもこの部分が神戸の焼き払う場所だが、やはり、周辺部に設定してやったが、これは神戸が燃えている所だが、米軍的には、うまく燃えなかった。この時に使われた組み合わせが前橋空襲でも使われた。焼夷弾の本体はM69を使って、アプライアンス火災を発生させ、民間人を威嚇するためにT4E4という破砕集束弾を使う。これは、後には採用されない。上手くいかなかった。東京空襲の3月10日の野戦命令書があるが、これは非常に大事なところで、どのような命令が出ているかと言うと、神戸で使ったアプライアンス火災を増やすための、破砕爆弾ではなくて、M47という焼夷弾を使う。爆弾を使うと勿体無いので、全部焼夷弾にする。焼夷弾の中で威嚇効果があるものを使おうというのが目標であった。東京空襲は米軍的には上手くいったと考えていたが、実はそうではない面もあった。これは前橋空襲とも関係してくる点だが、目視で爆撃できる場合は、爆撃手は仮に目標が指定されていたとしてもその場所が燃えていたときは別のところを狙えという命令が出ていた。これが失敗の原因だったと後で反省するわけなのだか、東京の場合は下町の辺りが、焼夷区画1号、その周りを囲むところが、焼夷区画2号、皇居の周りが焼夷区画3号、3号は焼夷弾を落とさないところ。3月10日の東京空襲ではこの赤い丸の地点を狙って落としたが、こちらは3月11日に撮影した写真だが、とにかく予定外に燃えた。この空襲は大成功だったという話になった。米軍によると世界で一番燃えやすい場所だったと書いてあり、そういったところに落としたということだった。米軍的には本質が見えなかったとも書いてある。次の名古屋の空襲の時には、東京は燃えすぎた、ということで、爆弾の投下間隔を変えたりして名古屋を狙ったが上手くいかなかった。目標が燃えていたら、その近くで燃えていないところを探して、爆弾を投下すると、乗組員は、早く爆弾を落として帰ろうという心理が働くらしい。近弾、ショートと英語では言うのだが、爆弾を手前、手前に落としていくので、上手くいかない。この次の大阪の空襲では、東京の時と同じように元に戻す。大阪にやはり焼夷区画と決められた中に4つ点を設定してそこに落とさせる。実は大阪空襲が転換点になる。どういうことかというと、天候が悪くて、下が見えなかった。すると選択できないので、爆撃手は全員この指定された場所にレーダーで、上空で考えなくてあらかじめ与えられた場所に落とした。それで大阪の街は丸焼けになった。ここで米軍は気付く。爆撃手が考えながらやるのはだめだ。東京を3月10日にここを焼いて、それから4月の初め頃に北部を焼いて、というように焼夷区画1号を焼いたあとは焼夷区画2号を順番に焼いていった。4回大きな空襲があった。ここで、これは前橋空襲にも関係があるが、大阪空襲が終わった後、3月14日にマリアナに電文が届く。マリアナの方は大喜びしていたが、アメリカでも非常に大きく注目されていて、新聞の社説で、正義の戦争をやっているはずのアメリカが、無差別攻撃をしているのではないか、というものが出てきた。市民を対象にしているのではないかという社説も出てきた。都市への全面的な焼夷弾攻撃は疑問を感じ始めた。この爆撃は日本の家内産業を破壊するために必要であり、戦略的な爆撃である。現在の主張を強く続けなさい。マスコミ対応はこうしなさい。無差別爆撃ではない、必要な爆撃なのだと、やらなければならないと。例えば、今日の資料の中に目標情報シートを入れていると思うが、ここに前橋市街工業地域という書き込みがある。これにインダストリアルというのを入れている。それによって前橋市というのは都市も広がっているが、その中に重要な工場がある、ということで、そういったネーミングひとつとってみても注視しなければならない、ということが書いてある。3月の東京、名古屋、神戸、大阪を通じて市街地焼夷弾攻撃の方法を確立した。大火を発生させるためにどのような組み合わせにすればよいのか、上空で爆撃手が考えて落とすのではなく、あらかじめ指定された点を狙う。みんな同じ点を狙う。確率論的な考え方でないといけない。バラバラに空襲しないで、70分以内に収めなさい。M69という前橋空襲に落とされた焼夷弾のことについて。これは日本の家屋を想定している。M69というのは、バラバラになって落ちると日本の瓦屋根を突き抜けた時にほとんどエネルギーを無くすように設計されている。一番米軍的に理想的なのは、屋根を突き破って天井に届いて横になる。そして気づかないうちに燃え広がる。すごくエネルギーがあった場合は、2階くらいに留まって、地上に突き抜けない、そういう設定方法だった。M69といのは、日本の家屋に非常に適している。初期消火を妨害するためにはM47を使う。M47というのは、M69と違って、爆発性がある。落ちた時に、消火部隊、民間人は近づけない。近づけないで、火災を起こすことができるので、火災が広がる。4月の段階で、典型的な日本の屋根を狙う場合は、初期消火を妨害するためにM47、火災を広げるためにM69を束ねたE46。例えば、平塚とか佐世保とかを狙う時は、工場が多いから屋根が固いので、M47は同じだが、M17、M50とかヨーロッパで使われたような焼夷弾となる。

前橋の場合は実は違った、というのがポイントだ。実は時系列で見なくてはいけない、前橋空襲は第14回だが、第13回目の中小都市空襲があり、これはワシントンから電文が届いた。何が書いてあるかと言うと、アーノルドという人が電文を送ってきて、7月19日に、2週間後ぐらいの8月1日が陸軍航空の創立記念日だということで、そこを派手にやれ、全機出撃させろ、と命令を下した。これは前橋空襲の一つ前の空襲だった。8月1日から2日の空襲では長岡と水戸は屋根が柔らかい普通の瓦屋根、八王子と富山、特に富山は屋根が固い。この空襲を準備する。しかも全機で、出撃というわけだから、焼夷弾を使い果たしたのではないか、というのが私の意見である。8月1日、5日の空襲は特殊でして、ほとんど残った飛行場がいない。1つの航空団で180機持っているが、ほとんど全機出撃。燃え方も街全体が燃えている。簡単に説明するが、富山の場合は黒い部分が燃やす予定のところ、またここは実際に燃えたところ。黄色い所があるがこれが0.5%弱くらいで、99.5%焼けた。北部の予定になかったところ、計画になかったので計算に入れていない。実際に計算すると、富山の場合100%を超えていた。前橋空襲の場合は、3期に別れている6月17日に始まった中小都市空襲の中の14番目の空襲として8月1日、2日の祝賀爆撃直後に行われた空襲だった。実は作戦の番号というのがあり、11月24日の中島飛行機の空襲を1番目として、順番に番号を付けていて、前橋空襲の時は作戦の番号313、314、315となり、部隊の名前と番号がたまたま一緒になった。そのため313番は、313をやる、314番は314番をやるということになり、315番は焼夷空襲ではなかった。この空襲が特殊なのは、M69と、捨てたはずの破砕爆弾と通常爆弾を使う。通常爆弾は普通の通常爆弾ではなくて、地上で爆発する、信管を使う。特殊性があった。

7月21日に出た文章の中に日本の180の都市を目標にしたと書いてあって、人口の多い順に書いてある。前橋市は57番目に出てくる。群馬の都市の中には前橋の他に桐生、高崎、伊勢崎こういう人口だった。いずれも10万人からである。1940年の国勢調査の結果をアメリカは持って帰っていて、最初は人口の多い所を狙った。これはちゃんと文章が残っているが、7月12日以降は人口10万人以下の都市も狙うことにした、と書いてある。その通りになっている。第14回中小都市空襲で前橋に空襲しに来たのは313航空団で、テニアン島に基地がある。元々は日本軍の飛行場があったところだった。私も2回ここに行ったことがある。ところで、ここが非常に大事なとこだが、B29が爆弾を落とす時に真上まで来て爆弾を落としていると考えている方が沢山いる。そうではなくて、爆弾を離すとそのまま飛行機と同じ速度で横に飛んでいくので、放物線を描く。B29の空襲は基本的に水平爆撃で、IP(攻撃始点)、前橋の場合は土浦である。土浦から真っ直ぐ速度を変えずに同じ高さで飛ぶ。その間に爆撃手が目標を見つけて、セットしてレバーを上げたら、何もすることなく、自動的に爆弾が落ちる。こういう仕組みになっている。それで、4都市が狙われる。前橋は、硫黄島から北上してきて、犬吠埼の辺りを通ったらだめで、日本軍の対空が厳しいから。前橋を空襲するのは難しい。内陸にあるので、レーダーが上手く働かない可能性がある。霞ケ浦の一番別れたところが土浦になるが、ここが水と陸があってレーダーを反射するので分かり易い。こここまで来たら角度を一定に保って進む。実際は、事前に調べてあり、どうも前橋を空襲するにあたり、riverと書いてあるが、つまり利根川が、レーダーに認識される。それで、あとは熊谷とか伊勢崎とか前橋は土地が平らなので、レーダーの反射率が高い。伊勢崎は非常によく認識されるから、ここを通って前橋に行く。

また、なぜ焼夷弾を収束させなければならなかったのか。焼夷弾がこのように収束していて、これは真横に90mくらい飛ぶので、攻撃力が高い。もう一つは破砕爆弾というもので、この写真はB29の中で、この真ん中にT4E4という前橋に落とされたのと同じタイプの収束破砕弾がある。この写真は2段になっているが、前橋の場合は1段だけだった。どのような効果があるかというと、見ればわかるように、実験的に爆発させて、破片を集めて、非常に破片が小さいから、対人殺傷効果が高い。

前橋空襲計画はどのようなものだったのか。これは非常に大事なのだが、最近20年くらい前に見つかったのだが、リト・モザイクというのがあり、両辺に0から152まで目盛りがある。横も縦も152で、その目盛りで、目標を狙わせる。前橋の場合は102072で102は横座標、そして072を結ぶと、前橋テルサの東約70メートルにある、馬場川通りに平行な通りが中央通りとT字状に交わる点になる、と私は資料に書いた。ここを正確に狙って落とす。100機全部が正確にここを狙って落とす、上空にきて考えてはだめだ。これも1インチに10目盛りを付けることが定められていた。現在のように、電子メールに画像を添付して簡単に届けることができる時代と違って、当時はマリアナからワシントンに空輸できなかった。あらかじめ座標を付けた地図を用意しておく、数字を言うことによって、どの地域を焼いたかということを分かることができる。前橋空襲は、太田地域、前橋上空ではなくて、レーダーが配置されていて、妨害しなければならない。特殊レーダー対策機、こうアンテナが突き出している、別名「やまあらし」という愛称があるが、それを出撃させて、レーダーを妨害させた。

前橋をいったいどのようにして空襲するか。これはリト・モザイクであるが、焼きたい面積はこの白い面積で、半径4000フィート、1.2キロメートルの確率誤差円の中だけを狙う。この部分を焼き払う。これは県庁とか、前橋市役所も勿論入っている。焼き払う予定には入っていた。非常に細かい計算をしている。また際立った特徴として、前橋を焼くかもしれないということで、伝単(リーフレット)を事前に落として、空襲を予告して、実際にそこに空襲してみせるということで、戦意を削ぐ、そういう効果を狙った。これは前橋のリーフレットを書いているところで、PWと背中に書いてあるが、日本人の捕虜が手伝っている、という色々な写真が残っている。これはみなさんよく見るかと思うが、損害の写真が何枚か残っている。10月20日に撮られた写真で、この写真を例にしてよく、群馬県庁や市役所は焼失を免れたのは、戦後のことを考えたからだ、と言われているが、そのようなことは全くなく、狙ったけれど、たまたま焼けなかった。

前橋空襲で米軍が目標にしたのは、黄色く囲った部分で、左が利根川、この面積を基準にすると、実は42%、赤い部分が焼けたところである。実際に計画に対してどうだったかというと、目標地域の面積に対して、円の中の赤い部分は77%を焼いた、ということで、損害評価した。米軍史料という立場から見ると、 一つ最近の傾向としては、中小都市空襲を個別に議論するのではなくて、一つの塊として、その日やった4都市の空襲とか、または時系列の中でその空襲をどの様に位置付けるか、という視点が大事ではないかと思う。

 

【質疑応答】

岩根委員

米軍側がいかに詳細に十分な準備を整えて、特に焼夷弾の準備をしている。非常にアメリカの準備・用意周到な状況が読み取れた。私たちが理解している中で、前橋空襲はいくつかの特徴があり、その一つとして、この8月5日の4都市だけに初めていわゆる破片集束弾が使われた。8月5日は、翌日は広島の6日であるので、恐らくこちらからテニアンに帰る飛行機とテニアンから飛び立って広島へいく飛行機がどこかで交差している間隔くらいだろう。前橋空襲は広島原爆の前日の空襲なので、ある意味特徴を付けられると思う。そこで初めて破片集束弾が使われ、特にこの4都市だけが使われた意味はどのように思われるでしょうか。これが一点、これだけ厳密な計算をされて空襲をしながら、最初に投下されたのは、今リト・モザイクで示された爆撃中心点ではなくて、リト・モザイクの円の北西、利根川のすぐ際の当時共愛女学校があったところ辺りが最初であった。なぜそれだけのレーダーを持っていたのに、最初の地点ではなく、大きく外れてしまったのか、その辺について伺えればありがたいと思う。

 

工藤氏

最初の質問は、破片爆弾を使ったのは、最初ではない。昭和44年8月14日に中国の成都から長崎を空襲した。試験空襲であった。そこでちょうど前橋と同じ組合せを使っている。空襲の初期の段階では焼夷弾は焼くため、破砕爆弾は落とすため、という役割分担があった。先ほど言った2月4日の神戸も同じ組み合わせであった。3月の空襲を経験して実はそういう路線をやめた。脅す役目はM47である。これはずっと定着していた。どこで乱れたかというと8月1日の前と後で乱れている。7月28、29日の青森と、青森をはじめとする空襲と、8月5、6日の前橋をはじめとする空襲、それから私が住んでいる徳山も7月27日に空襲を受けているが、徳山だけは破砕爆弾を使っている。8月1日が最大の何というか、もう戦争が終わるというのは分かっているが、アーノルドという人が、派手にやってB29が戦争を終わらせたということで、陸軍の中にはある航空部隊を早めに独立させたい、空軍として。その為に派手なショーを、祝賀爆撃をやった。祝賀爆撃というのは沢山飛行機を出すだけでなく、理想的な空襲をしなければならない。M47とM69の組み合わせで、空襲する。大量にそこで使ってしまった。その為に前と後に足りなくなってしまった、というのが私の考えである。これはまだ定着した考え方ではなく、時系列の中で見ていくと、使いたいものがなかった、というのが本質だったのではないかと思う。

2番目の質問は、前橋だけでなく他の都市でも、最初に落ちた場所は目標と別の場所だったのいうのは結構沢山ある。だか、目標にした1.2キロの円と、実際に燃えた場所は、ちょっと西によっているが、見ると全体的には最初に落とした爆弾が目印になって前橋市を焼き野原にした、ということが言えるのではないか。夜間に空襲するので、そんなには正確には落とせない。これは、日本には通説が色々残っていて、例えば、東京では最初に周囲を焼き払っておいて、逃げられないようにして、それから中の人を焼き殺した、ということが未だに言われている。そうではなくて、当時は夜間に精密に爆撃する技術を持っていなかった。だから逆にリト・モザイクを使って、前橋のように一点を指定する。全部がそこに落とすことによって都市全体が焼け野原になる、とそういう方針だった。

 

岩根委員

結局レーダーでの攻撃は必ずしもそんなには正確ではない。

 

工藤氏

一番正確なのは目視で攻撃するのが理想。見える時は目視で落とせ、と上から命令が出ている。基本的に日本は天気が悪い時期に、梅雨は明けているが、夜間にやるので、やはり精度が落ちるのは自明のことである。そういう時にどういう落とし方をするか、結局、一機一機別々の所を狙うのではなくて、全部が同じ場所を狙ったら、上手い人は、真ん中に落とせるが、下手な人は周辺に落とす。それによって街全体を焼け野原にすることができるという考え方である。

 

吉良委員

アメリカの爆撃の効果の評価をどのようになされていて、どのように変化していったのか、かいつまんで説明いただきたい。前橋の空襲はどの様に位置付ければよいか。

 

工藤氏

効果のことだと思うが、市街地空襲の場合は、効果は基本的に焼失率で示される。180都市狙って、毎晩違うところを攻撃するので、戦争がまだ続いているので、一つ一つ精密に考察しないので、大事なことは写真を撮るということで、攻撃前と後の写真を撮る。そして、専門の読み取りの上手な人が読み解く。全体の焼失率ではなくて、計画した中で、どれだけ焼いたかということで効果を判定する。これは日本空襲の主旨から変わらない。工場を空襲する場合はまた別の判定がある。

 

新井委員

前橋空襲に関しても、前橋単独でみるのではなくて、前後を含めて、時系列的に見させていただくことが事実を認識する上で非常に大切だと思った。

 

手島委員長

最近本が翻訳されて、初期は精密爆撃を、途中から無差別に変わって、東京空襲以降爆撃の質が変わる。そういったことと、先生が言われたことは繋がっている、と理解してよろしいでしょうか。無差別攻撃だと、非難が起きるから、アメリカ側が前橋を工業地帯にということで、戦後に前橋がなぜ狙われたのかという時に前橋は製糸工場で、中島飛行機の下請けをしていたからだ、という話になるが、実はそうではなくて、180の都市が選ばれて、狙われた。群馬の場合には利根川沿いにあって、前橋が8月5日、伊勢崎が14日だったといった理解でよろしいでしょうか。

 

工藤氏

はい。アメリカは、ヨーロッパでは、精密爆撃をやっていた。日本も初めは、鉄鋼産業、八幡製鉄所等を狙う軍需目標だったが、ヨーロッパでは非常に犠牲が増えたので、軍の内部に1943年10月に焼夷空襲の計画は出ているので、諸々の問題はあるけれど、棚に上げておいて、焼夷空襲をやろうという空気が蔓延していた。大転換をやるとなったと思う。

 

手島委員長

私ども委員は先月に岡山の資料館に視察に伺ったところ、その時に解説してくれた学芸員さんと先生が親しくて、岡山ではふんだんに取り入れて展示をされていて、前橋でも是非先生の研究成果を使わせていただきたい。先生は主にアメリカの記録から研究されていて、その前に私どもは姫路に行って、姫路の資料館の裏に戦災の慰霊塔があって、各都市から報告していて、前橋は8月5日以降3回という報告がされているが、これは勿論前橋市が報告したのだが、この3回はどのように理解したらよろしいでしょうか。

 

工藤氏

そこは私には分からない。最近色々な資料が出てくるのと、私達は資料を視覚的に、ビジュアル的に、今まで文章ばっかりだったのを視覚的に、日本地図上に移していくとか、または群馬県の地図の上に移していく。とにかく静岡県でやった。群馬県内でB29がどこを空襲したか、艦載機はどこをいつ空襲したか、それが基礎的な資料として分かるようになった。それを参考にすると、色々な新しいことがわかってくる。前橋の3回ということについては即答できないが、ただ昔の話だから間違いが多いのは仕方ないことだと思う。

 

手島委員長

私どもはこれから資料館をつくるが、今までの学習会から8月5日を前橋空襲として話が進んできたが、実は8月14日の伊勢崎空襲の時に前橋の周辺部、現在の前橋市に随分落とされているので、14日も含めて展示をしなければならない、と思っている。一般的な色々な地方都市で何々空襲と言った場合にやはりその日だけをと言うのだが、前橋空襲とか空襲と言った場合、定義とか範囲とかの研究の成果とかまとまりとかあるでしょうか。

 

工藤氏

B29に限って言うと、目標がはっきりしているので、作戦任務報告書に出てくるのは64都市で、日本で広島、長崎を除いて64都市である。芦屋も空襲の目的になって攻撃されたのだけど、抜けていて、正確には65都市なのではと思う。このようにB29に限って言うと比較的簡単である。一機二機、単機のものを含めて、至って簡単に。今私は、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議をやっているが、昔は組織の集まりだったのだが、これを来月止めて、衣替えをする予定で、組織の集まりから個人のあつまりにしていこうということで、来月旗揚げする予定であり、私は事務局長という立場であり、来年の大会が秋田の土崎で、これはフィナーレ爆撃の舞台で、315航空団、これは都市空襲をする航空団であるが、その中で、フィナーレ爆撃をみんなで見直そうというムードがあり、その中に伊勢崎も位置付けることが出来ればいいなと思っている。

 

【講師】2.大谷明應氏(前橋学市民学芸員)

資料2に基づき講義

私の講義の中で、工藤先生の講義と重複することもあるので、関心が高く、先ほどの講義を拝聴した。前橋地域は8割街が焼失した。被害面積が8割くらいという事ですべて語られるが、実は「戦災と復興」では被害面積としては6割、工藤先生によると42%、77%という話があり、捉え方は色々あるのだなと思った。私は米軍の資料を訳されたものを色々調べてみたのだが、42%という数字があるのだが、8割という話を聞いていたので、違和感がある。総合的に見ると8割というのもそう間違いではないと思うのだが、正確ではないと感じていた。私が前橋空襲を勉強するきっかけになったのは、2016年の一斉慰霊開始したことで、これは歴史を活用した街づくりのプロジェクトから発想されたもので、その時に誰か説明をしてほしいと言われた時に手を挙げさせていただいた。今日の話はその時に課題と思っていたことをきっかけで勉強することになった。この資料に前橋空襲の犠牲者は535人とすべきか。また、空襲犠牲者をなぜ慰霊する必要があるのか、という質問に対する答え、非戦闘員がなぜ亡くなったのか、やはりその時の問題意識があった。その他に勉強するにしたがって、色々な疑問がでてきた。

次に535人について、ずっとその時から思っていたが、実はこの資料の中にもあるのだが、市の担当者になぜ全体の数592人と言わないのか、と提案した。新聞の見出しに535人、500人近い数字が躍るが、実は592人なので約600人なのだという提案をしている。592人という話をしてそれから旧前橋では535人の犠牲があったということを広報なり、チラシなりで使うようにしたほうが良いのではないか、ということを2020、21年に市の担当者に説明させていただいた。その時の資料がこの資料の1頁から10頁までになっている。私的には分かり易く書いたつもりだが、結果的には説明したが、私の考えが間違っていたら言ってほしい旨を伝えたが回答はないままである。最近の一斉慰霊のチラシを拝見すると、ほとんど変わっていない。私の言っている592人の根拠は細かすぎるのかなとも思うが、「戦災と復興」の中に市町村別の被害一覧表があり、これから8月5日の死者数を抜き出すと2頁の表のようになる。前橋市民の数字が南橘村で計上された78人のうち58人が前橋市民で、535人の中に重複しているので、南橘村の犠牲者は20人になる。同じように形式的な数字から実質的な数字に差を取ると、合計の715人から592人になる。なぜこの数字を使わないのか。使わない事情が分からないが、理由があれば教えていただきたい。

この数字を全く使わないのかと思っていたら、そうではなく、前橋市の庁舎の1階で、7月27日から8月17日に「前橋空襲と広島長崎原爆のパネル展2022」が展示されていた。パネル展は毎年展示されていて、今年も拝見した。パネル展の数字を、資料の8頁に付けたので、ご覧いただきたい。斜めになっている数字が8月14日の数字である。斜めになっていない数字が8月5日の数字である。中段から下の小計を見ていただくと、小計が死者数47、負傷者144、罹災者2,932と集計されていて、パネル展は死者数47で一致している。負傷者は114でなぜか合わない。家屋被害については511で一致する。小計の下の富士見と大胡は最近合併した数字なので、どうもこれは除いてあるようだ。今年もちょっと申し上げたのだが、もう富士見と大胡も前橋なのだから、この数字を入れないということはないのではないか、去年の数字と同じだ、と指摘したのだが、回答は聞いていない。パネル展全体では、今年、前橋空襲体験者の原田さんの記事や述べた言葉が展示されていて、例年とは変わって非常に改善されたな、と思ったが、数字の方は直っていない。あたご歴史資料館の学芸員であった原田さんのお話は非常に参考になった。しかし一覧表の数字を使っているのなら、なぜ592という数字を使えないのか、私の素朴な疑問である。なぜ絶対数が592人ということがなぜ言えないのか。資料の1頁に戻っていただいて、1番目は535人の問題、2番目の問題は「アメリカ軍の攻撃は、22時28分から1時間15分続き」について。これは根拠として「戦災と復興」の中にも1時間15分続いたともあるが、今、前橋空襲をどの様に捉えるか。前橋空襲を8月5から6日にかけての今の作戦任務番号313と捉えると、少なくとも本県上空にあった時間はこれよりもっと長い。1時間15分というのは旧前橋市の上空だけではないかと思う。したがって、この辺はもっとお考えになったほうが良いのではないか。3番目の問題は「市内だけで約724トンの爆弾を投下された」ということで、市内だけの問題か。旧前橋市にすべて落ちたわけではない、周辺にもばらけたはず。旧前橋市に大分部は落ちたのであろうが、全部が落ちたわけではない。そこはもう少し考えて共有したほうが良いのではないかと思う。4番目の問題は、「市街地の80%が焦土化し」について。被害面積と捉えると違和感がある。米軍の資料で42%という数字があるが、これも少しばかり違和感がある。先ほどの工藤先生のお話だと、77%と言っていたが、これは実感があり、少し下がるが、違いがないと思う。資料の7頁を見ていただきたい。被害面積・面的被害、被害戸数・建物被害、罹災者人数・人的被害、この表自体は私が作ったもので、数字は「戦災と復興」から拾ったものである。表の1番上の面的被害、これは私が表現したのだが、これが6割、建物被害これが75.4%、人的被害これが87.7%である。これは旧前橋市全体ではなくて、建物の密集地、連たん地区となっている。米軍の資料だと、建物密集地区とか市街地に相当する。これを考えると、被害面積8割というのは表現の仕方をお考えになったほうが良いのでは、と思う。データに基づくとなると正確ではない。先ほどのパネル展の数字の話だが、資料を見たら、ここは被害面積について60%になっている。担当者には指摘しなかったが、被災面積が2,657平方キロメートルになっているが、点と小数点と間違えてしまったのかと思って指摘しなかった。また先ほどの資料の7頁を見ていただくと、参考1の被害面積について「戦災と復興」では坪で表現されていて、それを平方キロメートルに直して、更に米軍の平方マイルに直す。例えば全市域面積で11.88平方キロメートル、被害面積は2.66平方キロメートルと備考の所に書かせていただいた。2.66平方キロメートルは1.03平方マイルになる。この数字は米軍の資料とどう違うのか。参考2の作戦任務報告書、損害評価報告書と共通するところだが、目標市街地面積、焼夷面積これは焼けた面積。面積焼夷率これは42.0%となっている。焼夷面積1.00平方マイルと「戦災と復興」の罹災地区面積1.03平方マイルは、近似しているが、私が疑問に思うのは、目標市街地面積は2.34平方マイルでいいのかというところである。これは半径4000フィートの確率誤差円内ではない。円内の目標面積から言うと、焼失率は77%になる。普段広報とかチラシとかその辺の表現をご検討いただいたほうが良いと思う。担当者の方には提案させていただいたが、はっきりしないままである。資料の9頁に提案をまとめてある。単純集計の715人を使用している資料ではなぜ重複分を減じて扱わなかったのか。減じると592人になる。資料によっては、色々な数字を使用している。資料の4頁をご覧いただきたい。単純に重複分を含めている資料は、前橋市史、県援護史、群馬県史、上州路これらは重複しているとも何とも言っていない。715人になっている。県戦災史の572人は「戦災と復興」の警察関係の資料を使っている。なぜ592人を使わないのか不明である。「戦争遺跡」の587人は菊池先生の言われている数字である。市町村別内訳が分からないので、これについてはコメントができない。空襲通信に使われている582人は、合併の途中の数で、富士見が入っていないと推測できる。また、「子どもたちと戦争」の際の資料で、592人を使っている資料があった。これは「第79回企画展 子どもたちと戦争」で、そのままの592人という数字があったので、ホッとした。少し複雑な気持ちもある。私としても単純に資料の足し上げと、引き算の話になるので、簡単に提案された内容が採用されると思ったら簡単には採用されなかったので、少し苛立ちを感じた。学説の問題とか、研究の問題とかよりも資料そのものの数字を少し足したり引いたりをすれば出てくる。これは行政として表現を「戦災と復興」を根拠として、ご検討いただければと思う。私は535人をしつこく言って来ましたが、この535人はいつからこの数字なのかというところがあり、先ほど話がでた、姫路の施設に刻まれている前橋空襲の犠牲者数である。例えば11頁をご覧いただくと、他の市では見直されている。水戸から富山まで、多いところでは400人、300人も増えている。前橋だけ増えていない。初めから完璧ならこれはこれでよろしいと思うが、どうも検討する余地があると思う。少なくとも周辺の市町村を入れれば、535人ではないだろう。私は長岡の資料館に3回ほど行った。長岡の例を見ると、最初は、死亡者名簿はなかった。単に数字だけあった。市の助役さんが長年かけて名簿を新たに作り直した。当時町内会から数字のみを貰って足し上げた数字を使っていたが、改めて時間をかけて調査して名簿作成した。単に数字ではなくて、数字を見直すよりも、一番大事なことは命をリセットできないことである。死亡者名簿が必要だと思う。当市には死亡者名簿があるか、市の担当者に聞いたら、ないという話であったが、「戦災と復興」を探してみるとヒントになることがある。実は「戦災と復興」に460人の名前は入っている。これはこれで一つの名簿だと思う。そのほかに「戦災と復興」の中に死亡給与金489人分支給というのがあった。これは市の当時の担当者が努力されて、短期間に配っている。給付の法律「戦時災害保護法」自体が半年後、翌年2月に無くなったが、その名簿などがあれば死亡者名簿が作れる。こういったものを作る事ができれば、535人自体の見直しも可能なのではないかと思う。発掘できればいいなと思う。軍人は制度として特別な手当てがある。軍人恩給が支給されなくなったが、復活した。ただ一般の民間人の方は復活しなかった。それで全国的に裁判になっているようだ。軍人は手厚くまつられ、民間人は何もない、という状態は何も変わっていない。理不尽だと思う。沖縄では敵も味方も分け隔てなく名前を書いて皆さんに見ていただく。振り返っていただくようになっている。こういったものの前橋版があっても良いのではないか。あるいは名前の読み上げとか、長岡では写真の展示も始めた。数は、全部ではないが、途中から始めた。色々な施設が色々なことしている。地図の資料をご覧いただきたい。これは「戦災と復興」についている地図である。この黄色い線は私が入れたものである。中心点から半径4000フィートの円を描いて、ここに爆弾を落とした。県庁もこの円に入っていたが、結果的に燃えなかった。市役所も燃えなかった。この赤い所が燃えた所である。これを見ると米軍の周到さがよくわかる。先ほどヨーロッパの話も出たが、ドレスデン爆撃などは無差別ではないのか、という話もあったのだが、米軍はドイツ爆撃における無差別は認めていないが、日本における爆撃は無差別を公式に認めている。軍隊の補助として組織していたため、日本には一般市民はいない、という認識が軍の資料については書いてある。

なぜ前橋のような地方の都市が爆弾を受けなければならないのか。戦略爆撃とは何なのか。戦略爆撃について簡単にまとめた。資料の12頁をご覧いただきたい。精密爆撃とか、都市爆撃とか、地域爆撃とか言った言葉がでてきた。辞典的には、12頁下にある文章は「アジア・太平洋戦争辞典」から拾ったものである。歴史的に見て米軍は精密爆撃をずっと目指してきた。ノルデン照準器などの精密な照準器を作り、軍事拠点のみを攻撃する、それが可能であると信じてきた。ヨーロッパではなかなか理想通りに行かなかった。それがそのまま日本の方に効率的にするにはどうしたらいいのか。イギリスで地域爆撃という考え方があって、軍事拠点のある所も含めて都市を爆撃する、それが一番効率的だ。戦略爆撃はアメリカの言葉のようである。精密爆撃と都市爆撃を戦略爆撃としている。では精密爆撃は何かというと軍事拠点、軍事で使用される所を狙うことで、都市爆撃は一定の範囲を軍事目的施設も含めて、含めなくても都市を狙うことである。戦略爆撃の一番の共通的なものは、地上軍の連動なしに戦争に勝とうとすることである。戦略爆撃を始めたのは日本の重慶爆撃からであると専門家からは指摘されている。加害、被害が両面になってくる。ヨーロッパではイギリス、ドイツがそれぞれ加害被害の立場になる。アメリカと日本と言った場合一方的に被害という印象があるが、その大元は重慶爆撃が、加害ということになる。アメリカがなぜ日本に対して無差別だったか対日関係が歴史的にあるようだ。戦略爆撃の行き着く所は、原爆に尽きると思う。一定の地域を壊滅させてしまう。それを含め50万の戦災犠牲者がでた。被害に遭われた方の無念さ、その辺の思いを、私は未体験者であるが、未体験者の想像力にかかっている。いかに思いを想えるかという所がこれから前橋空襲を伝えるとか、戦争を伝えるとか一番のキーポイントとかキーワードと思っている。

 

【質疑応答】

岩根委員

特に被害者、死者数等非常に細かく綿密に検討されていて、敬意を表したい。私も前橋空襲の死者の人数を表現する場合600名近いといい加減な言い方をしている。「戦災と復興」107頁に前橋地方空襲一覧8月5日、これで地域別の死者数が出ている。これは警察署管内別で、この数字で言うと実は前橋は557人、高崎は10人、渋川は5人である。557人死者という数字で出ている。比較的これは一つの基準として使えるのではないか。前橋警察署管内というのは旧前橋だけではない。南橘とか含まれると思う。5日の前橋空襲で犠牲になったとなれば、どこに住んでいようと、死者としてカウントするべきだと思う。すると渋川で5人、行幸田で1人亡くなったと証言が出ている。それで高崎が10人というのも頷ける。帰りに高崎を通っているため。前橋は557人、これは直後に警察署関係当局が調査したもの。この数字は一つの基準として使っても良いのではないかと思う。大谷先生は厳密に細かく検討されたことに敬意を表したい。

 

吉良委員

私が何か言うのも大変失礼な表現になるかもしれないが、こんなに丁寧にしっかりと検証なさっていて、圧倒された。実は私は大学生の時に南京事件について英文の資料とかを皆で読んで、私にとっては加害と被害の問題はセットで入ってくるものである。地域の空襲をやる時に必ず加害は見えてこない。一緒に言ってしまうと変な議論になるので、文句を言っているわけでは全くない。そのことを考えながら、こんなに緻密に戦争被害はどのようなものなのか実体に迫る。地域がきちっとやらない限りいけないな、と思い感動した。一方で南京事件のことも頭のどこかに置きながら加害と被害の問題を戦争というのはいつも考えなければならない。ちょっと今日は感銘した。決して加害が心の中に入れていないのではないか、という話では全くなく、両方戦争というものにはある。最終的には自覚のない市民も含めて被害を受ける、ということを大変認識した。兎に角こんなに緻密にきちっと追いかける。この世代、次の若い世代の人々はどうやって戦争被害、加害と被害を含めてどうやって関わるのか。一人たりとも疎かにしない、ということに感動した。

 

新井委員

元々の「戦災と復興」の資料から紐解いて勉強いただいて本当に有り難い。前回の勉強会でも色々伺わせていただく中で、まだまだ新しい資料が出てくると感じている。そういったものも含めて新しい資料館の展示に活かさせていただきたい。

 

手島委員長

大谷さん、これだけの専門の先生に褒めていただいて、今までのご努力が実って、何よりだと思う。ただ、市の職員さんには、なかなかこれだけの権威ある先生方でなければ言えないので、難しいかと私は思う。今までの検討会で、これから資料館をつくるのにあたり、前回は、岩根先生が言われたとおり8月5日を前橋空襲と定義する、その時に亡くなった方をカウントする、ということになった。そして今言ったような警察署管内だとこうだ、あるいは大谷さんの調査だとこうだ、ということだが、その際に刑務所のこれは592人に入っているのか。

 

大谷氏

多分入っていないと推測している。「戦時災害保護法」の所管の担当の窓口は市役所。仕事に忠実に数字をまとめたと思う。ところが刑務所は所管外である。町村別の内訳には入ってないと思うが、よく分からない。535人すべての名簿があるわけではない。480数名分の名簿の中に刑務所の方が載っていれば入っているが、載っていなければ入っていない。当時作成した資料で、もしかしたらヒントになるものがあるかもしれない。

 

手島委員長

我々は資料を基にして判断するから、大谷さんの緻密な研究は、市町村別にやって差し引きをして592人としたわけだから、その市町村別のデータにはやっぱり刑務所の分は入っていないだろうと思う。さらにもう少し、課題として残して、挙げていっていただいて、今後展示する時にどうするか。我々は絶えず問題があったら、共有して、資料を発掘して、このようになったと告知して、資料館をつくってもそれが決定ではない。つくり上げるスタートの時に現在のあらゆる情報を入れてやるということが重要である。ある人が出した時にそれに対して違うと送り返されて、積み上げられていって、より誠実なものになっていく。ある時にぱっと資料が出たりするので、プロセスを皆さんに共有するということがとても重要なことであると思う。それを踏まえて、それにプラスやっていくとやはり、8月14日の伊勢崎の時に前橋とか周辺部に落ちている。被害もあるので、そういったことも入れて14日も含めてやらなければならない。その時はどのようにして死者とか被害を色々な資料でやっていくか、また検討が必要なので、大谷さんは既にやっているが、14日も含めて今後とも研究を続けていっていただければ有難い。

 

工藤氏

大谷さんの資料を拝見し、見解が違い、非常に大事だと思うことがあるので、指摘させていただきたい。資料5頁の下から6行目であるが、これは前橋空襲が何時から始まったのかという話と直接関係する話である。「作戦任務報告書」(「中小都市空襲」奥住喜重、三省堂、1988年7月15日)因みに奥住先生は私の師匠であるが、5日21時40分~6日0時8分となっているが、これは記載誤りと理解されている、と書いてある。私は、これは少し待ってくれと言いたい。実は指摘を受けて、短時間考えてみた。米軍の記載には矛盾がない、と思った。前橋に出る部隊は他の部隊より2時間早く出ている。これを見ていただきたい。これは作戦任務報告書である。米軍の資料は重層的になっていて、この一番下の部分、313というのがこの部隊の航路図である。ミッション313が313だった。出撃に何時か、上陸点は何時に通ったか、目的は何時なのか、離脱点は何時だったのか、テニアンに何時に着いたのか。一番早いのが何時、最後が何時と記載されている。細かく検討していくと、この時間はZ時になっていて、アメリカは世界中で戦争をしているので、アメリカ時間ではなくて、グリニッジ標準時で表す。9足すと日本の時間になる。目的に最初に着いたのは、12時40分、9足すと、21時40分。9時40分最初の飛行場が前橋から去って、陸地を去ったのは何分か、10時5分になっている。9時40分に爆弾を落とした飛行機が20分くらいかけて房総半島にたどり着く、というのは全く矛盾がなく、この一連の時刻の表記には無理がない。9時40分に落とした飛行機は最初に着くべき先導機ではなく、本隊の方がたどり着いたようだ。細かい話は、また別の機会にさせていただいて、米軍の記載は無理がない。一方的に、もっと理由がない限り、この可能性は捨てられない。これが私の意見である。

もう一つ大事な話がある。この年表について。資料14頁の8行目の12月8日、漢口(武漢)空襲の日で、日本の研究者の多くはむしろこの説をとっているが、空爆(ルメイ、M69焼夷弾使用)となっていて、これには3重の誤りが含まれているというのが私の意見である。これが考えられていた頃はまだ米軍の資料が入手しにくい時期だった。この日に空襲では、日本でよく使われているM69は使われてない。主力はM79という大型の焼夷弾を使っていて、目標も市街地ではなくて、ドック地域だった。当時観光に滞在した毎日新聞の記者の証言を基になっている。市街地の9割が焼け野原になったということになっているが、市街地の5%も焼けていない、これが事実ではないかと思う。カーチス・ルメイが、これをヒントに東京空襲をした、と言われているが、これは1970年頃からある通説の一つで、何の根拠もない。私は、これは間違いであると、思っている。ご検討いただきたい。申し上げた二点は、空襲の開始時刻と、日本に対する都市空襲の起源の議論である。大事なところなので、一言述べさせていただいた。

 

(2)意見交換

手島委員長

工藤先生が指導した、岡山などでは死者とか、岡山空襲の定義は前橋と比較した場合、行政地域を構わずに挙げているのでしょうか。

 

工藤氏

話的には岡山市のことだと思うが、今、市町村の合併があるので難しいのと、犠牲者の問題は日本空襲を考えると古くて新しい問題である。根本的な問題は戦後直ぐに調査しなかったことである。私の知る限り細かく本当に数名までに迫っている都市はいくつかある。一つは先程大谷さんが言っていた長岡。長岡の助役の方が非常に必死になって、しかもその後も分かったら足し算していくという方法でかなり正確である。愛媛県の宇和島では民間の方が非常に苦労なさってほとんど誤差なくなるまでに追い込んでいるが、ほかの所は非常に大雑把である。今更調べようがない側面はある。しかし日本の古い資料の中に時々占領軍の求めに応じて、細かい数字を出しているところもある。基本的には難しい。先程の姫路の話に戻るが、日本全国でどのくらい亡くなったかは、分からない。先程大谷さんが言っていた50万というのは戦災都市連盟の数字が中心になっている。どの様な問題が起こるかというと、広島、長崎をどの様にカウントするかで、全く大事な問題で、戦災都市連盟は過大評価している。今でも広島は、生命をカウントしている。まだ10万人に達していない。9万7千人くらい。広島市の公式見解は、約14万人、長崎市は約7万人、ここのカウントを間違えると、各地の都市の死者になるくらい誤差が出てしまう。結局どういうスタンスでカウントするかという問題がある。申し訳ないが結論はない。非常に難しい問題であり、これをやりだすと張り付いてやるようになる。非常に大事な事だと思う。

 

大谷氏

教えていただきたい。先程の焼失率、被害面積の関係で、計画された目標の中の焼失率77%の話だが、目標計画地域に対する焼失率の全国的な一覧表のようなものはあるのでしょうか。

 

工藤氏

多分探せばあると思う。【工藤氏資料提示】焼失率77%というのは日本人からしてみれば全く意味のない数字である。なぜかと言うとこの円、4千フィートの円の中でしかも建物のある面積を分母にした。分母を何にするか、分子を何にするかで、とても値が変わってくる。この値はまだ米軍が日本に入ってくる前に空から偵察写真によって専門家が判定した米軍が計画した面積に対してどうかという話である。一方でこちらは、私は意味のある数字だと思っている。黄色の線で囲まれた部分は、米軍が指定した建物地域である。つまり分母になる部分で、これはどの様に計算するかと言うと、実は私も自分で計算してみた。計算すると焼失率42%になる。この図面を前橋市の地図の上にぴたっと重ねて、これは曲線に見えるが、私がかなり時間をかけて周りをなぞって面積計算した。実際この左下を見ると市街地が下に出ている。つまりこの2.34平方マイルはある意味で一つの指標を与えると思っている。そこに先程の大谷さんから照会していただいた日本側からの地図を載せると簡単にできる。この黄色の面積は意味がある。先程の円いものは意味がない。この中の赤いものは米軍が日本にこないで、写真で判定した。日本にはもう一つ戦災図があるわけだから、それを重ねてあげて、1時間くらいあればできる。常識的な焼失率が出るのではないかと思う。それはやってみる価値があると思う。私にやれとおっしゃれば、いつでも可能である。

 

手島委員長

復興する時に建設省とかに、戦災都市連盟などが、各地域の報告をするが、そういう数値と米軍側の数値はだいたい一致するのでしょうか。

 

工藤氏

戦災都市連盟のデータは戦争終わって大分経つ。そして広島、長崎を過大評価している。それを足し上げると50万人くらいになる。多分政治的背景があるのではないかと思う。予算の関係とか。少し多めに出しているのではないか。米軍が戦後直ぐにまとめた資料がある。各都道府県にデータを出させて単純に足し合わせた。ただそれも色々限界があるが、ないよりましのデータがある。前橋空襲の立場で専門の人が再検討することが必要になる。

 

4 事務連絡

(1)令和4年度第5回会議以降の開催日程

次回以降の会議日程の確認

第5回会議 第3回学習会

10月27日(木曜日)午後2時00分 32会議室

 

5 閉 会

 

以上

配布資料

更新日:2022年12月20日