中央・南橘の文化財を訪ねて

 江戸時代に発達した沼田街道(前橋と沼田を結ぶ街道で、主に沼田藩の参勤交代用の道として使われた)に沿った地域には、前橋城ゆかりの寺社をはじめとして、古代から近代まで次のような貴重な文化財等があります。

萩原朔太郎の墓

萩原朔太郎の墓

田口町754-4 政淳寺

 萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)は、本市を代表する詩人で、明治19年(1886)に北曲輪町(きたくるわちょう。現在の千代田町)に生まれました。
 大正6年(1917)に詩集「月に吠える」を出版し、当時の詩壇で大評判となり、近代日本詩の確立に大きな足跡を残しました。
 朔太郎は、昭和17年(1942)に逝去し、萩原家の菩提寺である政淳寺(しょうじゅんじ)に葬られました。
 政淳寺は、元は千代田町(旧榎町)にあり、区画整理に伴い昭和47年に現在地に移り墓地もまた同地に移設されました。

 

石造観音菩薩坐像(市指定重要文化財)

石造観音菩薩坐像

田口町544-1 宝林寺

石造観音菩薩坐像(せきぞうかんのんぼさつざぞう)は、一枚の安山岩で造られた、高さ48センチメートルの半肉彫り(注釈1)の石仏です。
 田口町にあった古墳の上から、平成17年(2005)宝林寺境内に移されました。
 観音菩薩は二重の蓮華座(れんげざ)に座り、背に舟形の光背(こうはい。光明(注釈2)を表す装飾)を背負っていて、光背には5つの種子(仏を表す梵字)が彫りこまれています。また、像の両脇に刻まれた銘文から、応永20年(1413)に造られたことがわかります。
 像の鼻や目には一部欠損がありますが、全体に保存がよく、年号もあることから、石仏研究の基準となっています。
 また観音菩薩は、薬師如来(やくしにょらい)とともに現世利益(げんせりやく。神仏により現世で受ける利益)を求める信仰の対象となったことから、当時の民衆信仰の様子を知る上でも貴重なものです。

(注釈1)半肉彫り:彫刻の技法の一種。文様の盛り上がりの高さが、高肉彫りと低肉彫りの中間のもの。
(注釈2)光明(こうみょう):仏などの心身から発する光で、慈悲や智慧を象徴する。

塩原塚古墳(市指定史跡)

塩原塚古墳

田口町582-7

塩原塚古墳(しおばらづかこふん)は、昭和10年(1935)に行なわれた古墳の県下一斉調査の際に調査からもれた、名もない小さな古墳でしたが、昭和29年(1954)の発掘調査で、角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)削石積みの横穴式石室が確認され、副葬品も、直刀2本、耳環16、馬具など数多く発見されたことから、土地所有者の名をとって塩原塚古墳と名付けられました。
 石室に角閃石安山岩を使用した古墳としては、利根川流域で最上流に位置します。葺石(ふきいし。(注釈1))は傾斜面にのみ見られ、墳丘の頂上部はなく平坦化されており、埴輪(はにわ)は見当たりません。

  • 直径14メートル、高さ3メートル(北側2.6メートル)、石室長5.9メートル
  • 古墳時代(7世紀初頭)の築造と推定

(注釈1)葺石:古墳の墳丘斜面などに、貼り付けるように葺いた石

木造十一面観世音菩薩立像(県指定重要文化財)

十一面観世音像

日輪寺町412 日輪寺

 木造十一面観世音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)は、鉈(なた)彫りの観音と言われているもので、頭頂より台座にいたるまで、かつら材の一木造りの像です。かつては光背(こうはい。仏から発する光を表す装飾)があり、頭上は天蓋(てんがい)におおわれ、多くの信者から崇拝を受けてきました。
 像は、台座に両足をそろえて直立し、右手は与願印(よがんいん)、左手は施無畏印(せむいいん)を結び、天衣(てんい)は両肩から両足の前でU字形に垂れています。
 表面に顔料等での装飾はなく、丸ノミの跡が明瞭に残ります。胸には朱と墨で素朴な胸飾りが描かれています。眉、眼の上の線も墨書です。
 平安時代後期の観音信仰の高まりを示す本像は、観音堂の中で民衆の苦しみを救う慈悲の相をたたえ続けています。

  • 高さ151.5センチメートル(像高128.5センチメートル)

日輪寺寛永の絵馬(市指定重要文化財)

日輪寺寛永の絵馬

日輪寺町412 日輪寺

 日輪寺寛永の絵馬(にちりんじかんえいのえま)は、二本の杭に手綱でつながれる一頭の勇馬(いさみうま)が画かれています。
 墨絵を主とし、一部には青と白の絵具の色彩が見られます。右に「寛永拾七年庚辰年四月吉日」、左に「奉寄進御口前口」と書かれています。
 この絵馬には「馬が夜毎に抜け出して、田畑を荒して困るので、手綱をつけた。」という伝説があります。
 

  • 高さ93.5センチメートル、幅123センチメートル
  • 寛永拾七年は江戸時代前期 1640年

前橋市蚕糸記念館(旧蚕糸試験場事務棟)(県指定重要文化財)

前橋市蚕糸記念館

敷島町262 敷島公園ばら園

 前橋市蚕糸記念館(まえばししさんしきねんかん)は、岩神町にあった国立原蚕種製造所前橋支所の本館を、昭和56年(1981)に敷島公園ばら園内に移築したものです。
 明治45年(1912)に落成したこの建物の特徴は、木造大壁造り、横箱目地板張り、エンタシス状の玄関の角柱、レンガ積みの基礎、唐草(からくさ)風の床下換気口、上下開閉式の窓、出入り口のドアの低い取手、避雷針の設置、シャンデリアを下げた天井の飾り(通気孔をかねる)などがあげられます。昭和56年7月10日に群馬県指定重要文化財に指定されました。
 建物は、明治期の代表的な洋風木造平屋の建造物で、館内は4部屋に分かれています。製糸業とともに歩んできた前橋の近代史を知るのに貴重な文化財です。館内には養蚕・製糸業に関する用具・器械などが展示してありますが、それらは総じて「前橋の養蚕・製糸用具及び関連資料」として国登録有形民俗文化財に登録されています。【平成20年(2008)3月13日登録】

  • 木造平屋建て、延床面積275平方メートル

 

萩原朔太郎記念館

萩原朔太郎記念館

城東町一丁目2-19

本市出身の詩人萩原朔太郎の生家の土蔵を北曲輪町(きたくるわちょう。現在の千代田町)から敷島公園ばら園内に移築し、その後、書斎、離れ座敷も同地へと移築しましたが、平成29年(2017)に前橋文学館と広瀬川を挟んだ河畔緑地へと再移築復元し萩原朔太郎記念館として公開しています。

前橋市水道資料館(旧浄水場構場事務所)(国登録有形文化財)、前橋市浄水場配水塔(国登録有形文化財)

旧浄水場構場事務所、配水塔

敷島町216 敷島浄水場

前橋市水道資料館(旧浄水場構場事務所){まえばししすいどうしりょうかん(きゅうじょうすいじょうこうじょうじむしょ)}

本市の水道施設は昭和4年(1929)に完成しましたが、その時の事務所建物です。
 鉄筋コンクリート二階建てで、屋上には物見塔が付いています。瓦葺屋根の傾斜部分と物見塔部分は木造小屋組で形造られ、外壁は、階下窓下を多胡石粗石乱積、その上部はタイル貼りとなっています。
 設計は、「建築非芸術論」で有名な野田俊彦です。その論とは裏腹に、極めてモダンなセンス漂う建物です。

延べ床面積182.58平方メートル

前橋市浄水場配水塔(まえばししじょうすいじょうはいすいとう)

昭和4年(1929)に前橋市水道の配水塔として建設されました。
 幅1.25メートル、厚さ1.82メートルの環状体の鉄筋コンクリート基礎に、8本のラチス柱を立てて水槽を載せています。水槽は、厚さ19.1ないし9.5ミリメートルの鋼鉄板製で、その外側に珪藻土(けいそうど)を厚く塗り断熱材として、更にその上を銅版で覆っています。屋蓋は4.2ミリメートルの銅版製です。
 設計は、金井彦三郎です。
 令和3年2月に新たな配水塔に切替り、その役目を終えましたが、現在でも敷島公園のシンボルともなっています。

 

岩神の飛石(国指定天然記念物)

岩神の飛石

昭和町三丁目29-11 岩神稲荷神社

岩神の飛石(いわがみのとびいし)は、利根川の左側に忽然とある巨岩で、赤城山から飛んできたとの伝承が地元にありましたが、平成25年度から平成27年度にかけて岩の化学的分析調査等を行った結果、約2万4千年前頃の浅間山の噴火によって発生した「前橋泥流(まえばしでいりゅう)(注釈1)」により運ばれてきたともの判明しました。

周囲70メートル、高さ10メートル

 (注釈1)「前橋泥流」:約2万4,000年前に、浅間山の外輪山の大崩壊によって発生した岩屑流が原因で、吾妻川から利根川上流にかけて発生した大規模な土石の堆積物

旧安田銀行担保倉庫(国登録有形文化財)

旧安田銀行担保倉庫

住吉町二丁目10-2

 旧安田銀行担保倉庫(きゅうやすだぎんこうたんぽそうこ)は、大正2年(1913)に建設され、貸付金の担保物件として繭(まゆ)や生糸の保管をした建物です。
 桁間30間、梁間6間の二階建てで、レンガはイギリス積み(長手だけの面、小口だけの面と交互に積む方法)です。

 

日本最初の器械製糸所跡

器械製糸所跡記念碑

住吉町一丁目国道17号沿い

 明治3年(1870)6月、前橋藩により、藩士であった深沢雄象、速水堅曹によって造られた日本最初の洋式器械製糸所の跡です。現在は記念碑が建てられています。

臨江閣本館・茶室・別館(国指定重要文化財)

臨江閣本館

大手町三丁目15

 本館は、明治17年(1884)に、当時の県令楫取素彦(かとりもとひこ)の提言により、下村善太郎(初代前橋市長)を始めとする地元有志等の協力と募金により建設された迎賓館で、利根川の流れに面し、妙義、浅間の各山々を遠望する敷地のほぼ中央に建設されました。
 明治26年(1893)の明治天皇の行幸の際に行在所として使われたのをはじめ、大正天皇(当時は皇太子)などもご滞在されています。

 茶室は、本館建設への地元有志等の協力に対し、心を動かされた楫取をはじめとする県庁職員の募金により建設され、本市に寄付されたと言われています。
 茶室の建築は、京都の宮大工今井源兵衛によるもので、茶席は京間4畳半、本勝手、下座に床の間を持ち、入口は躙り口とせず貴人口とした形式で、わびに徹した草庵茶室となっています。

 別館は、明治43年(1910)に前橋市で開催された一府十四県連合共進会に先立ち、貴賓館として建設されました。1階には西洋間1室のほか、日本間7室があり、2階には180畳の大広間1室があります。
 別館の建築用材として、安中杉並木(安中市)の巨木30本の払い下げを受けており、大広間周囲に柾目美しく並び、今も大屋根を支えています。建築にあたっては、経験豊かな請負人として、市内の小曽根甚八が選ばれました。

酒井重忠画像(市指定重要文化財)

酒井重忠画像

大手町二丁目17-22 源英寺

 酒井重忠(さかいしげただ)自筆といわれるこの画像は、紙地に極彩色で描かれ、掛け軸仕立てとなっています。
 重忠の画像は姫路城(姫路市)にも一点残されていますが、これは源英寺に残された由来書から寛政9年(1797)に姫路藩主酒井忠道が源英寺の画像を写させたものです。
 重忠は、江戸時代の初代前橋藩主で、慶長6年(1601)に厩橋(まやはし。前橋)城主となりました。徳川家康に信頼され、厩橋城主となるにあたる「汝に関東の華をとらす」と言われたと伝えられています。

前橋藩主松平家能装束・陣羽織・軍配(いずれも市指定重要文化財)

大手町三丁目13-19 東照宮

 前橋東照宮には、前橋藩主松平大和守家(まつだいらやまとのかみけ)より奉納された能装束(のうしょうぞく)一式39点が宝物として所蔵されています。東照宮宝物台帳(昭和3年(1928)8月10日付)には、明治4年(1871)6月17日、12代藩主の松平直方(なおかた)がこの能装束を寄進したと記されています。18世紀後半、能装束が盛んに作られた享保(きょうほう)年間のころの作品が中心です。

 陣羽織と軍配は、昭和4年(1929)に松平家から由緒書とともに贈られたものです。陣羽織・軍配ともに松平大和守第2代の直矩により東照宮へ奉納されたものです。
 陣羽織は合戦のときに着用するものですが、この陣羽織は戦のなくなった17世紀ごろのもので、儀杖用(ぎじょうよう)の豪華なものです。
 地布の織は顕紋紗(けんもんしゃ)、地布紋は桜立涌紋(さくらたちわきもん)、襟(えり)は茶地角竜文様銀蘭(ちゃじかくりゅうもんようぎんらん)、縁取りは小石黒畳文様銀蘭(こいしくろだたみもんようぎんらん)、背の龍の丸文は、ガラスの目に鉄製の爪、火焔(かえん)は赤羅紗(あからしゃ)のアップリケどめになっており、金糸の刺繍(ししゅう)があります。

 軍配は、武将の戦陣での指揮道具で、軍陣の配置、進退の日時、方角などを占って軍の采配を行なうときに使われました。この軍配は、木製黒漆塗りで、長さ46センチメートルのひょうたん形をしています。片面には、陰陽道(おんみょうどう)を取り込んだ兵法の配置図が丸く入り、もう片面には、二代藩主直矩(なおのり)の名、位、出自、延宝2年(1674)の年号と「龍」の文字が金泥で書かれています。

  • 能装束一式:13件39点
  • 陣羽織:身丈1メートル、桁28センチメートル、前幅38センチメートル
  • 軍配:長さ46センチメートル、幅16.8センチメートル

能装束

能装束

能装束

陣羽織

軍配

妙安寺の梵鐘(県指定重要文化財)

妙安寺の梵鐘

千代田町三丁目3-30 妙安寺

妙安寺の梵鐘(みょうあんじのぼんしょう)は、南北朝時代の作と推定され、ほっそりとした形をしていて、「乳ノ間(にゅうのま)」の4段4列の「乳(にゅう)」を、「下帯(かたい)」に唐草文を配しただけの簡素な装飾となっています。
 「池ノ間(いけのま)」には、「大工想社住人藤原𠮷久、伊清」と作者名が刻まれています。さらに同じ池ノ間には「上野国群馬郡厩橋一谷山最頂院妙安寺常什物也」と追刻銘が施されています。
 この梵鐘が妙安寺の所有となった経緯は不明ですが、古くから前橋城下に鐘の音をひびかせてきました。数有妙安寺の寺宝の一つです。

  • 身高88センチメートル、竜頭(りゅうず)16.2センチメートル、口径55センチメートル

 

 

群馬県庁本庁舎(国登録有形文化財)

群馬県庁本庁舎

大手町一丁目1-1

 昭和初期の典型的な洋風建造物で、一階外壁を石貼り、二・三階がスクラッチタイル(注釈1)貼りになっています。玄関正面は、半円アーチの車寄せで、その上を知事室のベランダとしていました。関東近県では、もっとも先進的な建築技術を駆使した県庁舎でした。
 設計は、早稲田大学の大隈講堂を設計した佐藤功一で、建築費は79万円余りでした。大正15年(1926)に県庁舎として明治9年(1876)から使われきた再築前橋城本丸御殿を解体し、昭和3年(1928)2月に竣工し、落成式は4月9日に行なわれました。
 新庁舎建設に際しても、外観を保持しつつ改修して、活用を図っています。

(注釈1)スクラッチタイル:表面に平行の溝をつくって焼成したタイル

 

群馬会館(国登録有形文化財)

群馬会館

大手町二丁目1-1

昭和天皇即位の大礼を記念して、行事会議を行える施設として県庁前に建設されました。
 設計は、群馬県庁本庁舎と同じ佐藤功一で、外壁はスクラッチタイル、一階部分の石造り仕上げと重厚なルネッサンス様式の外観など、群馬県庁本庁舎と共通した一対の建物となっています。建築費は54万円余りでした。
 昭和58年(1983)のあかぎ国体の時に、内部の大改修を行いましたが、外観をそのまま残す外観保存の方法を採用したため、近代の建造物の保存と活用を両立させた方法として、注目されました。

前橋城車橋門跡(市指定史跡)

前橋城車橋門跡

大手町二丁目5-3

 車橋門(くるまばしもん)は、前橋城の外曲輪(そとくるわ)と加内(金井)曲輪を結ぶ大手筋にあって、数ある城門の中で、特に重要な門の一つでした。
 「直泰夜話(なおやすやわ。(注釈1))」によると、初めは2本の柱の上に1本の横木をのせた冠木門(かぶきもん)でしたが、酒井忠清(さかいただきよ。4代藩主)のとき、通路をはさんだ2つの石積み基台の上に渡櫓(わたりやぐら)を渡櫓門に改められたといいます。今に残る絵図に、その威容がしのばれます。

 前橋城は、宇都宮、川越、忍(おし。行田)の城とならんで関東の4平城の一つとされ、特に、幕府にとっては北関東のおさえの城として重要でした。酒井重忠(さかいしげただ)が初代藩主になる時に徳川家康が「汝に関東の華をとらす」と言ったという言い伝えがあります。
 前橋城は現在、県庁北側の土塁、児童遊園地(るなぱあく)の空堀とこの車橋門だけが、当時の面影を伝えています。

  • 基台 前幅4.25メートル、奥行7.7メートル、高さ1.4メートル、基台の間隔10.9メートル

(注釈1)直泰夜話:酒井氏時代の事跡を記したもので、酒井氏家臣が著した。

前橋カトリック教会聖堂(国登録有形文化財)

前橋カトリック教会聖堂

大手町二丁目14-6 前橋カトリック教会

昭和7年(1932)建築。鉄筋コンクリート造一部3階建。正面左右に、下部四角・上部八角の塔を立ち上げた双塔形式の会堂で、内部は3廊式となっています。身廊(しんろう。(注釈1))を8分ヴォールト(注釈2)とするなど、ゴシック式を基調としていますが、身廊部の簡明な壁面構成や陸屋根状の側廊(そくろう)部などモダンな取り扱いも特徴です。

(注釈1)身廊:入り口から祭壇に向かう中央通路のうち翼廊(よくろう。身廊に対して直角に建てられた部分)に至るまでの部分。
(注釈2)ヴォールト:アーチを平行に押し出した形状を特徴とする建築構造。

酒井家資料(市指定重要文化財)、前橋藩松平大和守家記録(県指定重要文化財)

酒井家資料

大手町二丁目12-9 前橋市立図書館

酒井家資料(さかいけしりょう)は、藩政と幕政の歴史を具体的に伝えてくれる貴重な資料です。
 酒井雅楽頭家は、慶長6年(1601)に重忠(しげただ)が初代藩主となって以来、9代忠恭(ただずみ)にいたる約150年間前橋藩主を努めました。
 酒井家には、江戸時代の前橋の様子や幕臣としての政務などを記した貴重な資料が残されてきましたが、酒井家史料は明治になって東京大学の辻善之助によって編さんされたもので、酒井家資料121巻(酒井家資料は、全巻で欠がなく明治12年(1879)まで編年体で記録されている)、酒井家資料目録4冊、酒井家編年資料1冊、系図3巻の合わせて129点となっています。

 前橋藩松平大和守家記録(まえばしはんまつだいらやまとのかみけきろく)は、松平家の月番家老が元禄2年(1689)から明治2年まで、日々の政務の中で重要と思われることを書きついだものです。もとの冊数は不明ですが、合計404冊にのぼり、前橋の近世後半の歴史を具体的に伝えてくれる貴重な資料です。
 徳川幕府の譜代大名である松平氏は、寛延2年(1749)、酒井氏に代わって前橋に入城しました。途中明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで埼玉県の川越に移城しますが、慶応3年(1867)前橋城を再築して帰城、明治2年(1869)の版籍奉還まで約120年間前橋領を支配しました。

 

前橋祇園祭礼絵巻(市指定重要文化財)

前橋祇園祭礼絵巻(板屋町芸屋台の移動実況図文政11年)

大手町二丁目12-9 前橋市立図書館

前橋の祇園祭礼(ぎおんさいれい)は、江戸時代の城下町前橋では、一年中でもっともにぎやかな行事の一つでした。連雀町(現えびす通り)にあった八坂神社の祭礼として、どの町からも競って芸屋台や飾物等がくり出し、これに神輿(みこし)の行列などが加わり、町内はもとより城内にまで練り込んだにぎわいをみせていました。
 こうした祇園祭礼の様子を表した絵巻は、宝暦3年(1753)と文政11年(1828)に描かれたものです。宝暦のものは「おねり」の行列を写生し彩色したもので、技法的にも優れ、文政のものは一つ一つを細密に描き、色彩を施したもので戯画風の味もあり、宝暦のものと違った趣をもっています。二巻とも作者は不明です。

  • 宝暦:縦35センチメートル、長さ12.53メートル
  • 文政:縦27センチメートル、長さ9.75メートル

旧勝山社煉瓦蔵(国登録有形文化財)

旧勝山社煉瓦蔵

本町二丁目3-8

 旧勝山社煉瓦蔵(きゅうかつやましゃれんがぐら)は、明治35年(1902)に製糸・織物業で栄えた勝山社が所有する倉庫として建設されました。桁行8.8メートル、梁間5.1メートル、妻入(注釈1)の煉瓦造二階建てで、屋根は切妻桟瓦葺(きりづまさんがわらぶき。(注釈2))です。外壁の煉瓦はイギリス積(注釈3)で、鉢巻や窓まわりに土蔵風の意匠を見せています。正面出入口は後世の改修です。小屋組はキングポスト・トラス(注釈4)で、元は本町通り(現国道50号線)に面していましたが、国道50号線の拡幅に伴い現在地に引き移転しています。軒が高く重厚な外観を呈しています。

(注釈1)妻入:棟木と直角の面に入り口のある建物。
(注釈2)切妻:屋根の最上部の棟から地上に向けて、本を伏せたような山形の形状をした屋根。
桟瓦:江戸時代以降普通に用いられている瓦。断面が波形をしている。
(注釈3)イギリス積:煉瓦を長手だけの面、小口だけの面と一段おきに積む方式。
(注釈4)キングポスト・トラス:トラスは、細長い部材を三角形に繋いだ構造。キングポスト・トラスは、もっとものシンプルなトラス構造。

 

東福寺鰐口(市指定重要文化財)

東福寺鰐口

三河町一丁目9-18 東福寺

 鰐口(わにぐち)は、寺や神社の軒先に吊るし、願い事をする時に鳴らすものです。
 東福寺(とうふくじ)の鰐口は青銅製で、表裏ともに同心円の条線で、撞座(つぎざ。(注釈1))、中区、銘文帯に区画されています。もとは赤城山地蔵岳山頂の地蔵堂にかけてありましたが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でお堂が廃棄され、勢多郡粕川村西福寺所蔵を経て東福寺の所蔵となりました。
 表面には「武蔵国比企郡延益郷地蔵堂常住応永十三年丙戌拾月十一日願主」、裏面は「宗慶 敬白」と銘文があります。応永13年(1406)に現在の埼玉県比企郡小川町の地蔵堂に奉納されていた鰐口が、赤城山地蔵岳のお堂に奉納されていたことを知る赤城信仰の遺品です。

  • 径14.5センチメートル、縁4センチメートル、中央6.7センチメートル

 (注釈1)撞座:梵鐘の部分の名称。梵鐘を打ち鳴らす棒が当たるところ。
(注釈2)廃仏毀釈:明治期に起こった仏教排斥運動。

八幡宮文書(市指定重要文化財)、伯牙弾琴鏡(市指定重要文化財)

本町二丁目7-2 八幡宮

 八幡宮は、前橋が厩橋と呼ばれていた頃から総鎮守として賑わい崇拝されてきた神社で、社殿は「上毛古墳綜覧(じょうもうこふんそうらん。(注釈1))」に前橋市第9号古墳として記載されている古墳上にあります。
 八幡宮文書(はちまんぐうもんじょ)は、八幡宮の社宝として伝えられているもので、次の文書からなっており、前橋を支配した領主との関係が伺えます。

  • 元亀2年(1571)北条高定(きたじょうたかさだ)の寄進状
  • 同年 北条高廣(きたじょうたかひろ)の諸役免許状
  • 天正12年(1584)北条高廣の再確認状
  • 天正13年(1585)松田兵衛太夫(まつだひょうえだゆう)の安堵状
  • 天正15年(1587)北条高廣の年貢・諸役免許状
  • 天正19年(1591)平岩親吉(ひらいわちかよし)の寄進並諸役免許状
  • 年代不明 平岩親吉の寄進状
  • 慶長7年(1602)酒井重忠(さかいしげただ)の寄進並諸役免許状
  • 慶安2年(1649)酒井忠清(さかいただきよ)の安堵状

 伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)は、八幡宮境内の古墳から出土した唯一の遺物として伝えられており、神社にふさわしい宝物として大切に保存されている銅鏡です。背面には琴の名人伯牙の故事(注釈2)を題材とした文様が鋳出されています。二つに割れているものの、原型をよくとどめています。
 なお、伯牙を題材とした鏡は、古くは法隆寺の伝来御物の中にもあり、奈良時代のものとしては現在日本各地に12面ありますが、県内には八幡宮と貫前神社のものと2面あります。

  • 八幡宮文書 一巻九通
  • 伯牙弾琴鏡 直径17.2センチメートル、周縁部4ミリメートル、内区2ミリメートル

(注釈1)上毛古墳綜覧:群馬県下の古墳を昭和10年(1935)に調査し刊行したもの。
(注釈2)伯牙の故事:伯牙は、一番の理解者である親友が亡くなった際、自分の琴を理解する人がいなくなったと嘆き、以後二度と弾かなかったという故事

八幡宮文書

伯牙弾琴鏡

高須家墓地(市指定史跡)

高須家墓地

三河町一丁目19-37 正幸寺

高須家(たかすけ)は三河出身の武士で、代々酒井雅楽頭家に仕えた家柄で、家格は千五百石の石高でした。前橋では藩主が江戸にいることが多かったため、藩政を取り仕切っていました。
 貞享元年(1684)に沼田領内の再検地(注釈1)を総奉行として公正的確に行い、結果として税を軽減することになったため「お助け縄」と呼ばれて感謝されました。また、元禄2年(1689)に前橋藩でも総検地を行い、藩の財政立て直しに大きな功績がありました。前橋の藩政史上、欠くことのできない家老でした。
 正幸寺(しょうこうじ)本堂脇に、37基の石殿型の石塔が系統的に保存されています。

(注釈1)沼田領の再検地:沼田真田家が改易となり、沼田領が幕府領に編入されたのを機に行なわれた検地。

カロウト山古墳石棺(市指定重要文化財)

カロウト山古墳石棺

三河町二丁目1-3 中川小学校

この石棺(せっかん)は、文京町二丁目14番地内にあったカロウト山古墳から出土したものです。カロウト山古墳石棺の石材は凝灰岩製(ぎょうかいがんせい)で、風化してかなり痛みが激しくなっています。
 長方形で、内面はきれいにくり抜かれており、長側面にそれぞれ二つの縄掛突起があります。平面箱形をしており、側面が直立することから、従来家形石棺とされてきましたが、近年舟形石棺とする解釈もあります。
 昭和10年(1935)に調査した「上毛古墳綜覧」には、長さ39メートル、高さ23メートルほどの帆立貝式の前方後円墳であったと記されています。

  • 長さ2メートル9センチ、幅98センチメートル、高さ72センチメートル、厚さ16.8~20.5センチメートル
    (内法)長さ1メートル62センチ、幅約40センチメートル

前橋藩主酒井氏歴代墓地(市指定史跡)

前橋藩主酒井氏歴代墓地

紅雲町二丁目8-15 龍海院

 龍海院(りゅうかいいん)境内の南西隅に酒井氏歴代墓地があります。酒井氏は、初代重忠(しげただ)から9代忠恭(ただずみ)に至る約150年間前橋藩主を歴任し、その後姫路藩主を六代つとめた大名家です。
 江戸時代の前橋藩主は、酒井、松平の2氏ですが、歴代墓地が前橋に残っているのは酒井氏だけです。
 墓地は、南北方向に大きな墓石が2列に並んでいます。西側に初代重忠夫妻をはじめ9基、東側に7基、他に2基あります。4代忠清(ただきよ)から15代忠顕(ただてる)までの墓石は同形同寸で広さ約40平方メートル、高さ80センチメートルほどの石造壇の上に建てられています。周囲には、石柵、石扉がめぐらされ、手前には燈籠(とうろう)と手洗い盤が置かれています。2代忠世(ただよ)、3代忠行(ただゆき)の墓地も同規模ですが、石塔は八角形の宝塔型で当時の酒井氏の権勢がしのばれる立派なものです。

  • 墓石18基(うち2基は伊勢崎藩主の墓)

下村善太郎の墓(市指定史跡)

下村善太郎の墓

紅雲町二丁目8-15 龍海院

 下村善太郎(しもむらぜんたろう)は、明治の初めに前橋市の発展の基礎を築いた生糸商人で、初代前橋市長となりました。
 善太郎は、文政10年(1827)本町の小間物商の家に生まれ、17歳で結婚しましたが、事業に失敗し、24歳で八王子へ移りました。安政6年(1859)の横浜開港を機に商才を発揮し、生糸輸出で大成功を収めました。文久3年(1863)に帰郷し、生糸商「三好善(みよぜん)」を開きます。その後は、桃井小学校、師範学校設立、利根橋架橋、臨江閣建設等、前橋の発展に私財を投入しました。中でも明治9年(1876)の県庁誘致の業績は特筆されるものです。明治25年(1892)市制施行の際、初代市長となりましたが、翌年病のため逝去。享年67歳。 前橋の名誉市民の第一号ともなっています。

本城氏の墓(市指定史跡)

本城氏の墓

紅雲町一丁目9-14 長昌寺

本城豊前守満茂(ほんじょうぶぜんのかみみつしげ)は、出羽国(現山形県・秋田県)57万石の藩主最上(もがみ)氏の最高家臣で城持ちでした。元和8年(1622)最上氏の所領が没収されると、前橋藩主酒井忠世(ただよ)に預けられて、千三百石で抱えられました。酒井家家臣は、本城氏一族ほか、旧最上家から酒井家に新たに抱えられた家臣を「最上衆」と呼んでいました。
 現存する墓三基は、高さ2メートル以上の五輪塔で、最下部の地輪部にある銘文によると、満茂の夫人、満茂の次女、満茂の養子(親茂。ちかしげ)の墓であること、寛永年間(1630年前後)に造られたことがわかります。文化8年(1811)満茂の後裔である満主が作らせた絵図面には、満茂をはじめ19基の墓石と2体の石仏が画かれていますので、その後、火災・災害等により滅失し、三基のみ残ったものと思われます。

  • 五輪塔三基:高さ2メートル、2メートル45センチ、2メートル30センチ

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更新日:2022年08月16日